はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

Lepus

初めてイナバにやってきた

イナバというと白兎よりも物置の方が先に出てきてしまう程に「100人乗っても大丈夫」のCMが頭に浸透しすぎている今日この頃ですが、とにかく電車(と気動車*1)に乗って因幡こと鳥取にやってきました。

  • 初の山陰。久しぶりの学会発表。今回はポスターなので楽。
  • 最後に日本の学会に出たのが2年前なので、シンポジウムなどを見ると自分が日本の事情に疎くなっているのを感じる。どんな大型プロジェクトが走っているかとかもう全然。
    • ちなみに2年前に出たのも同じ学会。ただ、2年前はワークショップでの講演だったので、最後に日本でポスター発表したのは実に4年前の2009年。やはり今回と同じ学会で、当時はまだポスドクならぬ学位を持たないポヌドク研究員という昔っぷり。そもそも初めて学会発表したのが9年前なので、自分にとって4年というのはかなりのブランク。
    • ついでに、アメリカにいた時のポスター発表はいつもA0版の大きな一枚ポスターだったので、A4でパワポスライドをちまちま貼るスタイルも4年ぶり。いろいろ忘れていてやばい。

で、今日はこうして日本の学会に参加するために準備をする中で感じたあれこれを、前回の日記(前職場振り返り)の補足として書けたらと思っていたのですが、意外と時間がないので単に到着報告に留めることにします。刺身おいしいよ刺身。

  • 実際に学会に参加したら、またさらに書き加えることが増えるかもしれないので、と一応言い訳をば。
  • 自分は「誇大広告」「過剰な宣伝」に対して結構な潔癖であるような気がする、というのを今回のポスター発表のタイトルや要旨(アメリカで出した論文から部分借用・改変したもの)を読み直して思った、というのが書きたかったことの要約。大したデータじゃないものを、素晴らしいタイトル、イントロ、そしてディスカッションをくっつけることで凄そうに見せるのにも、やっていい限度があるだろう、とか。
    • 自分の許容できるレベルはどう見ても前ボスよりも遥かに低い。そしてこの自分の持っている低い許容レベルは、論文以外のことに対しても同じで、ある意味一貫している。
    • 論文のタイトルに過剰に聞こえのいいタイトルをつけるのって、要はネットで見かける「タイトルは釣り」と同じだし、少ないデータで大きな事を言うのは「ほとんど中身のないライフハックのブログ記事」と変わらないじゃないか、と。
    • そういう記事・論文の是非や、どの程度なら許されるかの基準はともかく、そういう類のものを相当嫌悪している自分がそれっぽい論文の筆頭著者とか、悪い冗談でしかない。

さて、今回のタイトルは因幡の白兎に賭けて、ノウサギ属を表す単語を持ってきました。

  • 折角なのでちゃんと正確に、因幡の白兎は分類だとどれに入るのかと「日本のウサギ 種類」で検索してトップにWikipediaの「ニホンノウサギ」が来たときの破壊力。
    • 「じゃあもうあれだろ、因幡の白兎の種類は『イナバノウサギ』だろ」と笑いながら記事を読み進めて目に飛び込む「オキノウサギ隠岐諸島固有, Lepus brachyurus okiensis)」の衝撃。奴は固有の亜種だったのか!
    • Wikipediaによれば「いなばの白兎」の『いなば』が必ずしも因幡とは限らない&兎のいた「おきのしま」が必ずしも今の隠岐島とは限らないらしいけども、まあ、その辺はさすがに。
    • 出来る限りタイトルは短くしたいので、okiensisとLepusで迷う。ただ、あまり専門的なタイトルをつけると間違って来てしまう人がいるので、敢えてLepusに。
  • そして「釣りタイトル」の真逆を行く英単語一文字タイトルが完成。誰も釣らない。釣る気もない。


というわけで(ry

*1:鳥取県はほとんど電化されていないらしい。以前別の学会で行った徳島と同じ(徳島の方は100%非電化らしいけども)

Rebel

アメリカからの「荷物」が片付いたついでに、前の職場を振り返ってみる(2)

…またの名を「本来の任期である3年が終わって手元のビザもようやく切れたので、前の職場を振り返ってみる」


そんな訳で、前の更新からかなり間が開いていて、以前のタイトルにあった「荷物が届いたついで」というのには時間が経ちすぎているのと、それならばと実情にあったタイトルに変えてみたら、タイトル違う時点でもはや(2)じゃないような気もしてきたのですが、敢えて(2)を貫き通してみます。

  • (2)を早めに書こうと思っていたら、新年度と共に様々なイベントが押し寄せてきて(ry
    • アメリカから最大の「届け物」が予定されていた/届いたのが3月末だったので、それまではある意味仮体制だった&新年度から新体制に移行したので(ry
  • 言葉通り、届いた荷物が概ね片付いた以外にも、ちょうど前の職場がらみの仕事*1が片付いたのでこのタイトルに。
    • そして息つく暇もなく迫り来る現職場での初の研究室内進捗報告…!こんなもの書いてる場合じゃないような気もするが(ry
    • かといって前職場の仕事も完全に終わった訳ではなく。一番大きな仕事はこれからが本番ですよ。なんてこった。とりあえず前ボスが「この日から休暇だから、それまでに片付けたいな!」といって指定してきた日が、まさに進捗報告の前日とかやめて頂きたいのですが。


さて、前回は前職場の一般的な環境について書いた訳ですが、今回はもっと個別の事情、前職場で前ボスやその他のメンバーとやり取りして研究を進め、論文を出す中で自分が何を感じたかに踏み込んでみようと思います…


…が。


果たしてどこから、どう書くべきか。
前回の更新から2ヶ月半、ある日は「ありとあらゆることをぶちまけるぜ!」と息巻いてみたり、また別の日は「いやいや、あまり個人的な事を書くのはねえ」と自重してみたり、それなりに揺れ動いていたのですが…


おそらく、どう語るにしてもキーワードは【言語】と【研究哲学】なのだろうなあ、と。


【言語】は、要は英語の事で、たとえば「英語で意思疎通するのは日本語でするよりずっと大変だ」というだけの事なんですが…。
でも、それは、単に英語の単語が分からないとか、表現が適切じゃないとか、文法がこんがらがってしまうとか、
もっと具体的に、通りすがりの人に挨拶するのにも頭を使うとか、同僚と雑談するのも一苦労、とかだけではなくて、
「上司が度々やらかす勘違いを、その都度、相手が気を悪くしないようにうまいこと正す」
「上司に責任を問われたときに、自分には非が無いことを示しつつ、誰に非があるのかは敢えて曖昧にしておく」などという、
割と厳しいシチュエーションでの会話、日本語ならぎりぎり出来そうな(場合によっては日本語ですら上手くは言えないだろう)会話を、いかに正確かつ簡潔に、そして自分の言える範囲の単語で、相手に発言された直後の0.1秒で返せるか、そういう大変さです。

  • 個人的には「何でそんなことをしたんだ!」という言葉そのものだけでも十分ストレスフルなのだけども、それにひるまず英語を使いながら反論しないといけないという環境。反論すれば分かってもらえるらしいと気づいたのは、英語で何とか返せるようになってから=結構後になってから。


特に、自分にとって最初の1年は、自分の喋っている言葉に自信が持てないので、相手が何か誤解していてもそれが本当に勘違いなのか、自分の英語によるものなのかが分からず、雑談以外の場、発言に何らかの責任が生じるような状況では常に緊張していたように思います。


週に1度のボスへの進捗報告も、事前に資料・ハンドアウトを用意して、言うべき文章、見せるべきデータを全て載せました。それを元に何を言うか全部リハーサルした上で、その通り喋っていました。まさに、英語慣れ・国際学会慣れしていない日本人がいかにして国際学会を乗り切るか、それを進捗報告のレベルで毎週やっていました。たとえ書かれている英語が間違っていても、グラフや数字は間違っていないのでそれを読んでもらえれば、という戦略です。なので、データがない週は憂鬱でした。


結局、リハーサルをせずに資料を作るだけで済むようになったのは1年目が終わってから、最終的に資料がいらなくなり、日本にいた時と同じようにグラフ一枚を手に進捗報告に向かえるようになったのは、2年目も終わりになってからでした。

  • こうなるとデータがなくても全然怖くない(日本語でやるのと同じように、言い訳というか状況説明をちょっと考えておけばよい)ので、随分気が楽になった。
  • ちなみに、1年目2年目は進捗報告前に日本語の歌を聞くと英語が出なくなるので英語のPodcastが手放せなかった。3年目になってようやく、直前まで「ぽっぴっぽー、ぽぴー!」とか言っていても、グラフを取り出した瞬間にとりあえず英語で説明できるようになった。もちろん英語は依然として不正確だけれども。


さらに、これは自分だけかもしれませんが、1年目は英語を喋る事にエネルギーを割きすぎていたのと、周りの環境が英語だったので、記憶の呼び出しと研究に必要な思考に支障をきたしていました。


おかしな事を書いていると思われそうですが、日本で学部から博士、研究員に至るまで身に着けてきた技能が、ロックでもかかったように全く出てこなくなり、どういう点に着目して解析をすればよいか、得られたデータの見せ方や分かりやすいスライドの作り方、話のもって行き方、そういうものが学部生か修士学生のレベルにまで落ちてしまって、自分でも博士取得までの7年間はなんだったのかと愕然としました。そもそも自分がそういう状態にあると自覚したのは、渡米後半年以上経ってからでした。

  • 何故そういう事態になってしまったのか、もちろん急激な環境の変化でショックが云々とすることもできるのだけれど、それ以上に自分の技能は全て「状況記憶」として保管されていて、映像と言語、日本語で記述されているからじゃなかろうか、と思ったり。
    • たとえば、「どういう点に着目して解析すべきか」⇒昔、指導教官とディスカッションしたときの記憶、他の人の論文で見かけたときの記憶、自分が実際にその解析をやって、データを見ていたときの記憶。
    • 推測でしかないけれども、この頃は自分の中でまだ英語と日本語の間に高い壁があって、英語で得た知識や経験と日本語で得たそれらが完全に分離していて、どちらかにアクセスしているともう片方が出てこない、そんな感じだったのだと思う。
  • 実は、環境が変わると直前の環境で経験した記憶が出てこなくなりがちなのは今回が初めてではないのだけど、これほどの年数、これほどの範囲で記憶が一時的に飛んでしまうのは初めてなので、おそらく英語も関係しているのだと思われる。
    • 研究以外で記憶がおかしなことになった例*2:渡米半年過ぎた辺りの一度帰国で名古屋を訪れた際、地下鉄車内にあった路線図が分からなくなってしまった。2年の間に何度も地下鉄を利用して路線図そのものも見慣れていたし、知らない駅名はほとんどなかったのはずに、その時は書かれた漢字が駅名であることも、その読み方も、その駅を訪れたときの記憶も、そもそもそのカラフルな曲線のからまったものが路線図であることも曖昧にしか分からなくなってしまって、呆然と「絵」を見ていた。実家辺りやワシントンDCにも地下鉄&カラフルな路線図はあるのだけれどそれらは当然大丈夫で、ただ直近の2年を過ごした名古屋での記憶だけが妙なことになっていた。新幹線から地下鉄への乗換えや、地下鉄の中の様子などは記憶にあって懐かしいと感じていたので、たまたま目に入った路線図だけが異様に浮いていて、前衛絵画でも見ているような気分だった。その後、1年2ヵ月後に再び名古屋を訪れたときには記憶はちゃんとリストアされていて、不自然なことはなかった。


とまあ、散々英語に足を取られながら研究活動に励んでいたわけですが。
多分、【研究哲学】が同じであったら、ここまで英語に不自由した事を悔しく思い出したりはしなかったんじゃないかと思いもするわけです。


研究哲学といっても、自分だって大した物を持っているわけではありません。
ただ、指導教官の言葉である「自分の仕事やデータ、人の仕事やデータについて、自分の軸を頼りにして解釈ができるようになる。それが自立した研究者だ」*3というのを胸に刻みつけて学位を取った身としては、やはり自分の軸というのはどうしても譲れない訳で、もっと言えば「何が格好よいか、何が素晴らしい研究か」の一点に関しては、軸とか言う以前に自分の中にある美学なわけで、これはもうどうにもならないんじゃないかと思うわけです。


…。


詳しくは書きませんが、テーマの選び方、データの取り方、解析手法、論文の書き方、オーサーシップ、どの論文誌に投稿するか、等々、美学的な意味で自分には到底受け入れられないことが多く、しかも「この環境に甘んじていると、外に出たときに完全に駄目になってしまう」という危機感ばかりが募る2年半でした。

  • 気を抜くとボスが解析から論文書きから何から侵出してくる*4ので、何でもボスに丸投げ出来てしまう環境。その代わり自分は成長しないし、どんどん自分の美学に反する論文が自分の名を先頭にして出て行く。
    • 別に自分がとりわけ駄目だからそうなるのではなく、他のポスドクに対してもそうなのは少し話をして分かった。日本にいるときに読んで、ちょっといいなと思っていた論文の筆頭著者と話したり少し一緒に仕事したりして「あ、この人、自分で主体的にあの論文書いたんじゃないんだな…」と分かってしまったときの悲しさよ。そして自分が徐々にそうなりつつある事への恐怖!
    • 「ここに長くいれば論文も増えるしある時期までは安泰かもしれない、でもここにいればいるだけ精神的に死んでいくし、最終的に自分のためにならない」
    • それでも、最後の方は開き直って&逆手にとって、面倒なことを積極的に押し付ける「よりかかり怠惰ポスドク」と化していたような。何様だ。*5
  • で、危機感を抱えていても訴えるだけの英語力がないし、訴えてどうにかなるものでもない部分も結構。
  • ポスドクで一番問題になるのは「論文が出ない」ことだけれど、二番目は「論文は出ているが実は本人は全然成長していない」だろうとしみじみ思った。誰かに状況を相談しても、どこかのタイミングで「でも、論文出てるならいいじゃない」で切り捨てられるので困る。その論文を出すまでに自分がどれだけ能力値を伸ばせたかも大事な点だと思うのですよ。綺麗事かもしれないけれど。いや、本当、綺麗事なのはわかっているんだけども…。
    • 逆に、最初の論文が出る前は「せめて1報出してから出て行ったら?」「問題はそこじゃないんだよ!下手したら自分が(途中から)何もしてなくても出てしまうんだよ!論文が!ここだと!(怒りと嘆きに満ちた口調で)」というやり取りもした。改めて文字にするとかなり意味不明だが、間違ってはない。


美学という意味では、もともと自分は極端に言うと「博士取る=自殺行為というか自殺」というスタンスの人なので「博士を取ったのだから自分は割と早く死ぬだろう*6、ならば、論文は数を稼いで上に行くことを考えるのではなく、残された時間で少しでいいから良いものを出したい」という考えなのですが、そもそも前提のPh.D.取ると人生オワタ、というのが日本でしか通じない概念であることをすっかり忘れていました。

  • 欧米や中印あたり出身のポスドクは、母国に帰ればポストはあるだろうorアカデミックに残れなくてもそれ以外の道が…といった具合で、決して悲観することはなかったはず。この温度差には、正直耐えられないものがあった。もちろん、彼らには明るい未来があるのに日本の博士号の自分には…という意味では全くなく、「こっちは少し先のほうに崖があることを凄く楽しみに生きているのに、こいつらは将来がどうとか一体何を言ってるんだ」という方向で。
  • 本当はこの考えを英語で説明したいんだけども非常に難しい。日本の博士号取得者の未来が素晴らしく暗い事は説明した事があるが、それが「制度的には問題だが、個人的にはそれを狙ってきた、とても楽しみだ」というのは日本語でだって、容易には分かってもらえないだろうから。


そんな訳で、前の職場を振り返れ、個人的な話題を中心に!という題に対して、こういう文章を綴ってしまうのは果たしていいのか?と思わなくもないのですが、別に他に書くこともないし、実際、アメリカにいたときの職場についての上記以外の記憶といえば、とにかく建物の中にいるのが嫌で極力家から仕事をするようにしてたとか、アメリカを去る2週間前ですらプロジェクトの進行があまりに美学と反するので激しい無気力感に襲われたりとか(この無気力には滞在中常に悩まされた)、2年半で「最近こんな論文出たよね、読んだ?」といった会話をボス含めほぼ誰ともしなかったとか、同じく職場に不満のあった友人と「必ずここを脱出しよう」と励ましあったりとか、逆に、楽しかった記憶って全部職場の外だったりとかして、職場での楽しかった記憶ってあまりない気がします。

  • 件の友人も無事脱出できた&最近前職場の話をしたのだけども、同じ事をするにしても環境は大事という事で意見が一致した。
    • ストレスとかプレッシャーとか恐怖とか怯えとか、そういうものがないだけで頭の回り方が全然違う。
  • 逆に、前職場の仕事&メール書きをストレスを溜めながら現職場でやっていた際、ちょっと席から立ち上がって振り返ったら、突然、自分がもはや物理的に前職場にはいないのだとはっと気づいて、まるで悪夢から覚めたかのような感覚を味わった。ちょっとばっかり感激の涙も出そうになった。


追記(2013/06/02):
上の文章は最初の一行を除いて5月の半ばに書き上げたものなのですが、やっぱり(いくら冷静に書いているとは言え心配だったので)少し時間を置いて見直してみたかったのと、どうせなら渡米3周年の5月26日にあわせて公開しようと放っておくうちに、26日どころか初出勤の6月1日も過ぎてしまって今に至ります。
内容が内容なので更新するべきか非常に迷ったのですが、ここまで書いたものを横において他の話題を更新する気にはなれませんし、この3周年のタイミングを逃すと永遠に更新しない気がするので、一部具体的なエピソードを削った上で公開する事にします。

  • 読み返すとあれも書いていない、これも書いていない*7といった具合で本当に全然書き足りないのだけど、それをやるといつまでたっても書き終わらないので(ry
  • ちなみに一番上に書かれていた研究室内進捗はしょぼいながらも無事に終わりました。
    • この5ヶ月間、前の職場の仕事に随分時間と気力を吸い取られていて、こちらでの仕事に全然手が回っていなかったのだと気づかされた。物理的に離れていてこれなのだから、向こうにいた2年半ではどれだけ吸われていたのか。時間はともかく、気力の方を。

次の更新はいわゆる日常回というか、普通の更新にしたいものです。

  • というか早く更新したい、新しい職場で見聞きし考えた、くだらなおもしろい色々を!


追記2(2013/06/03):
日曜の夜の更新だし、大して人目に付かないだろうとたかをくくっていたのですが、意外とそうでもなかったみたいです。

  • 滅多にブックマークされないので、いざされるとたとえ少しでもうひょへぴゅ(ry
  • 改めて読み返すと本当泣き言というか地味かつ真面目かつ抽象的なこと極まりない。なので、ちょっとだけ具体的かつテクニカルなボスへのツッコミを足しておく事にする。*8
    • 「えーと、なんだ、いくら身内びいきだからってペアワイズアラインメントをbl2seqでやれって言うのはどうかと思うのですよ。あのツールは元々ペアワイズ用じゃないですからマジで。それと、いくら身内のツールで済ませたいからって、モデリングで得た手持ちの構造とデータベース中のテンプレート構造のペアワイズ構造アラインメントするのに、データベース検索ツール使って全構造とのマッチとかさらっとやらないで下さい本当。その辺の分子ビューアーでもたかだか1秒未満で出来る事を『全部サーチし終わるのに1日半かかるんだってー』とか笑顔で言われたら、流石にカタコト英語の自分だって横に立ってるツール開発者に『ペアワイズ、ないんですか、bl2seqみたいなの…』とか聞きますよマジで*9。」
    • ここまで身内にこだわるのはうちのボスだけだと信じたい。っていうか一応ここ世界的拠点っていうかほぼ世界トップなんだからそんなに頑張らなくても、ある程度は世界が持ち上げてくれるでしょうに…!bl2seqとか…!
    • まあ、実はデータベースの種類や分野によっては必ずしも世界トップではないので、気持ちは全くわからないわけでもない。でもなー、自分は別に中のスタッフじゃなくてただのポスドクだし、データベース開発部隊で自分の所のDBを使わないといけないとかならまだしも、外部のDB使って研究してた純粋な研究担当だったわけで、何かもう、ただとにかく良い研究がしたいだけなんだよなー、いやマジでマジで。


というわけで(ry

*1:荷物と表現するに相応しいような論文…。

*2:きっと自覚しなかっただけで本当はもっとたくさんあるのだろうけど、これはあまりにもクリアでしかもショックだった

*3:2009年2月にこの http://b.hatena.ne.jp/mbr/20090223#bookmark-12243629 ブックマークコメントでも使った。発声練習さんの背骨エントリー。

*4:ボスがデータセットをくれというので渡すと統計解析されて返ってきたりする。論文も書かれないように予防線を張っても気を抜くと先に書かれる。ボスが唯一やらないのはおそらく一番最初のデータセットの生成だけ

*5:そしてそれを支える事が出来てしまうのがボスの凄い所でもあり、困った所でもある。

*6:博士取得後最初の1年くらいは自分がもう死ぬんじゃないかと思っていた。前述の環境変化や英語のプレッシャー、論文出版競争他もあって、明日には気が狂って死ねるんじゃないかと期待していた部分もそれなりにあった。渡米2年目になってようやく、自分が博士号を取ってしかもまだ死んでいないとはっきり自覚した

*7:震災の後のまどマギ最終回で精神的に壊れたとか、丁度脱出のためのあれこれをやっているときに某ブログ記事を読んで「猫好きが猫を殺すような環境」という言葉に思わず涙したとか、渡米の話が出る前からボスの名前の入った論文は読んでいたので、研究の進め方のタイプには何となく気づいていたけどまさか(ryとか、エピソードは色々ある

*8:これは美学とか以前に、いまどきのバイオインフォ屋としてツッコまずにはいられないので…。

*9:その場に居合わせたもう一人のポスドクは英語に困らないので、さっくりと全力でボスにツッコミを入れていた

Level

アメリカから荷物が着いたついでに、前の職場を振り返ってみる(1)

前回の日記から1ヶ月と1週間強が経ったわけですが、国内での引越&それに伴う様々な手続き&アメリカからの荷物受け取りをこなして、ようやく落ち着きつつあります。

  • 採用通知も健康保険証も無事届いて、最初の給料もちゃんと振り込まれて、身分が不明な状態と深刻な日本円欠乏状態から脱したが、職員証だけがまだ来ない。そして迫り来る任期終了の3月末。ちなみに臨時入構証は先月末で期限切れたまま放置されている。
    • 現職員証を手にする前に、来年度の職員証の発行手続きの案内を受け取ったときのこの何ともいえない感覚…。

Twitterでも一度呟きましたが、現職場は環境としては前職場の数倍から数十倍、ときに数百倍以上よく、何の不満もありません。
あまりに不満がなくて楽しい日常なので、自分としてはいろいろと愉快でなかった*1前職場の事を急速に忘却しつつあります。

  • しかし、このまま忘れ去ってしまうのも勿体無いので、さしあたっては今思い出せることを、なるべく全般的なことから書きとめていくことにする。本当に書きたい、個人的な心境までたどり着けるかどうかは謎。


さて、特定を恐れずに書くと、前の職場はアメリカNIHの中でもバイオインフォマティクス分野に特化したセンターで、この分野の世界的拠点といって差し支えない場所でした。
実はNIHにいる同じ生命科学ポスドクでも、分野が違うと名前を知らない人が意外といるのですが*2、このセンターの管理下にある『世界でおそらく唯一にして最大の、生命科学系文献データベース』の名を出せば、生命系の人はまず間違いなく反応します。

  • ぼんやりした顔が、その名を出した瞬間ぱっと明るくなり、そして徐々に驚きが混じったものへと移る、あの表情の変化を何度も目にすると、だんだん言うのが申し訳なくなってくる。出来ればセンター名の時点で気づいて欲しい…。


このセンターですが、内部的には3つの部門に分かれており、それぞれ研究部門、開発部門、内部インフラ部門という位置づけになっています。そして、まずここで言わないといけないのが、各部門、特に研究および開発部門の規模です。
全世界にサービスを提供し、世界の生命科学を強力にバックアップするいわば生命科学のインフラであるところのこのセンターで、最大の規模を誇るのは当然、サービスを維持し改良する開発部門であって、間違っても研究部門ではありません。
しかし、科学の傭兵または科学の派遣社員であるところのポスドクを採用するのは研究部門であって、開発部門ではありません。*3

  • 誤解を生まないために正確に書くならば、開発部門には学位取得後5年未満のいわゆるPostdoctoral Fellowはほぼ皆無で、ほぼ全員がEmployeeとなっている(ソースはNIHのGlobal Address book)。ただし、Employeeの中には常勤職員のStaff Scientist以外に、Research Fellowと呼ばれる学位取得後5年以上が経過したポスドクのような人も混ざっているので、必ずしも開発部門が全て正規の常勤職員で占められているとは断言できない。
    • たぶんこの辺のことは、ちゃんと聞けば教えてくれるんだろうけれど、ポスドクフェローがほとんどいないと分かった時点であまりの構成比の違いにショック受けてどうでも良くなってしまった。
    • 普通に考えれば、サービス提供部門は常勤の人々が粛々とメンテを行っているべきで、ポスドクの出る幕はなくて当然なのだけども、これが意外と他所ではそうでもないらしく(ry

この時点で、このセンターに来たポスドクは「世界最大の拠点に来たんだけど実は立場の弱い部門配属」という事実に直面するわけです。

  • ポスドクの間では「予算がカットになったら縮小されるのはまず研究部門、その中でも最初に切られるのはContractor(外部の契約社員)、次は我々ポスドク…」というのが、共通認識だったように思う。特に、自分が赴任した2010年は、その次の年辺りで予算が厳しくなり、実際にContractorの解雇があったようだ。ポスドクの採用も1年ほど控えられていたはず。世界最大拠点だけど普通に世知辛い。*4


次に、この研究部門がどういう組織なのかですが、それを端的に表す言葉は「フラット」でしょう。
他のNIHのセンターと違い、ここでは研究室や研究グループという意識が希薄で、ほぼ全員が「このセンターの研究部門のスタッフ」という肩書きしか持っていません。もちろん、便宜上いくつかのグループに分かれてはいますが、そこのラボヘッド(Senior Investigator)が他のスタッフ(Staff Scientist)より常に偉いかというと全くそんなことはなく、いわゆるラボヘッド級の人が普通にただのスタッフとして誰かのグループに居たりします。
こういう組織になったわけははっきりしませんが、おそらくこのセンターがまだ設立30年未満なことに加え、立ち上げに関わった人たちが当時まだかなり若く、30年近くたった今でもまだトップとして現役なあたりに理由があるように思います。

  • 立ち上げの人たちの間や、黎明期の頃に赴任してきた人たちの間で上下関係を設定するような動きがなかったので、そのままここまで来たのだろうと推察されるが、詳細は謎。
  • もちろん一部のスタッフの間では年齢(経歴?赴任時期?)か何かのファクターで、ぼんやりと上下関係が構築されているのだけど、これが肩書きとして可視化されない。実際にプロジェクトの動きを見ていたりすると、命令系統で誰が上で誰が下かはすぐ分かるが、逆に言えば、見なければ絶対に分からない。

自分の前ボスもあるとき、言っていました。
「うちのセンターはね、他と違ってフラットで凄くいいんだよ!
…あ、うちらにとってはね。」
そう、スタッフであれば、ね。


こういうフラットな組織に下っ端のポスドクとして赴任すると、誰がどこにいて、どういう経歴で、どれくらい凄くて、何をしているのか、ということがさっぱりわかりません。

  • ちなみに、「スタッフはみな平等でポスドクはその下」という構造は古代ギリシャを彷彿とさせると退職してから気づいた。

この組織構造に、物理的な建物の構造が追い討ちをかけます。このセンターは各フロアーが一つの大きな部屋で出来ていて、その大部屋の中をパーティションで区切る事で一人一人に割り当てるブース、キュービクルを作っています*5。唯一の例外は各フロアの窓際に少数設けられた個室で、これらの個室はだいたいスタッフの中でも上の方の人に割り当てられています。
つまり、全ての個人がどこかの階の個室かキュービクルに適当に配置されているので、個室持ってる人は偉いんだろう以外の推測、たとえば「あの人はXXグループの部屋に入っていったから、XXの所属だろう」といった推測は、全く出来ません。

  • 最近、キュービクルをグループごとにまとめようと頑張っているらしいが、果たして。
  • ついでに、お茶部屋や給湯室的な場所もないので、誰かの雑談が聞こえてきてそれと分かる、というケースもない。これは自分が英語話者でないので、そんなに簡単に聞き取れないのもあるけれど。

極め付けが、この組織ではポスドクの方がスタッフより少ないという事実です。前述の通り、開発部門ではポスドクはほとんど居ませんが、研究部門だけでもポスドクはスタッフに数で負けています。*6
数で負けるとどうなるか。組織の方向性を決定するのがスタッフで、人数もスタッフが多いとなれば、ポスドクの扱いは自然と適当になります。

  • 具体的には、研究部門全体で順番に回ってくる内部セミナーにポスドクが組み込まれてなかったりとか。これは自分が来る数年前に是正された(「もっと若い人にも発表の機会を与えよう」とかいう理由で)と聞いた。
    • 似たような話で、とあるグループのポスドクさん曰く、赴任当初はグループ内セミナーなどが全くなかったので、自分のグループに誰がいるのか全容を把握できなかったらしい。これも、スタッフ同士はもう知ってるので問題にならなかったものと思われる。


自分が、親しい人に前職場の不満を冗談めかして言うときの決まり文句は


「流しがない」「窓がない」「セミナーがない」


でしたが、これはそれぞれ


「人が溜まる場所がなく、誰がどこで何をしているのか分からない」
「大きな部屋にみんな投げ込まれていて、組織構成がさっぱり」
「新参者がもともといた人たちと交流するような場がない」


と言えなくもないかもしれません。
いや、もちろん、


物理的に流しがなくてコップをトイレで洗うのが嫌だったとか、
キュービクルが部屋のほぼ真ん中で窓が遠く外の様子が全く分からなくて気が狂いそうだったので、デュアルディスプレイの片方の壁紙を空画像にして、15分ごとに変わるようにしてたとか、
あまりにセミナーや学会参加の機会がなさ過ぎて、渡米後初めて英語でセミナーしたのが何故か名古屋での出身ラボでのセミナーで、それも渡米してから1年9ヶ月も経ってからだったとか、


そういう言葉どおりの意味も多分にありますが。

  • たぶん、ポスドクを5年やって、様子を十分把握した上でスタッフになったりしたら、この環境は非常に居心地の良いものになったと思う。でも、昨今の予算事情を加味する限り、それはかなり難しい。
  • あと、今回は全般的なことに集中したのでまったく書いてないけれども、研究内容の問題もあったりする。


まあとにかく、自分が経験した前職場の環境、特にポスドクという職の立場は、こういったものでした。


ただ、最後に明記しておきますが、もちろん、上に書いた(主に組織的な)問題についてどうにかしたいと思っているスタッフの人たちやポスドクの人たちはちゃんといるので、徐々に改善に向かっているはずです。

  • ポスドクで集まってランチにいく企画を立てる人が現れたりとか、前にも書いたとおりキュービクルの配置をグループ単位に一致させようとか。
    • でも自分そんなに待てないよ!流しも窓もセミナーもあるラボに行くよ!ごめんね!!というのが本音。流しでコップ洗ってるだけでこんなに喜びを感じる日が人生に訪れるとか予期してなかったし、修士の学生さんの発表練習を聞きながら幸せをかみ締めたりとか、廊下の終わりの所の窓から西日が廊下に差し込んでいるのに思わず目を奪われたりとか、もう現職場のありとあらゆる些細な事に感動できる。


次回(もしあれば)は、より個別の事情として研究内容および研究方法について書けたら書きます。

  • 今回の内容はほぼ事実を列挙しただけなのでいいけれども、研究内容や手法については、あんまり書きすぎるとあれなことに(ry

追記(という名の謝辞):
上のあれこれには先輩ポスドクだった韓国人の同僚から得た情報を多分に含んでいるはずなので、念のためacknowledgeをば。自分より3年長く在籍していたとはいえ、なぜ彼があれほどまでに情報通だったのか謎です。

  • ちなみに、自分が赴任から1年経つ前から次の職を探し始め、最初の任期である3年を待たずにここを退職したのには、赴任してきた直後に聞いたこの同僚の「出たかったら任期が終わる前に出たっていいんだぜ」の言葉があったからだったりする*7。この言葉がなかったら、無理して2年くらいは職探ししなかったかもしれないし、その間の精神状態がどんなものになったか、想像もつかない。


というわけで(ry

*1:とはっきり言ってしまおう、この際!

*2:このセンターがNIH内で外れたところに立っているのも、NIH内での知名度が低い原因だと思われる。NIHの人たちは建物の番号でどこの所属なのかを判別するのだが、メインのビル10周辺から離れてしまうと、番号を覚えてもらえず(ry

*3:ちなみに、この二つの部門は組織として完全に独立しており、普通のポスドクが普段の研究活動で開発部門に関わる事はおそらくないものと思われる。

*4:もっと世知辛い話もあるが憶測を含むのでここでは書かない

*5:どうしてこういう構造になったのかについて以前とある人から聞いたのだけど、憶測の域を出ないようなのでここでは触れない

*6:これが何故なのかはよく分からない。憶測だけども、このセンターは分野の拡大と共に規模を拡大してきたようなので、ポスドクがどんどんスタッフに昇格した結果、スタッフが蓄積されていったのかもしれない。

*7:当時、この同僚自身が出たがっていたのもあって、こういう発言になったものと思われる

cyclic

あけおめ in Japan

気が付けば年も明けて1月も後半に入ってますが、今更新しないと2013年は一度も更新しないような気配がするので、とにもかくにも覚えている事を記録しておきます。

  • 帰国直後に何を考えていたのか、何が起こったかを忘れてしまう前に書きとめておきたいのもあったり。


12月29日:9ヶ月と数週間ぶりに日本の地を踏む。これが永久帰国だとはまだ信じられない。

  • 成田に着いて、「おかえりなさい」の文字にふと苦笑する。何だかなあ、というのが正直な感想。
  • アメリカから送った船便の荷物が届くまでの間、生活するのに必要な全てが詰まった大量の荷物を引きずって、別送品申告書を出しに空港を端から端まで移動。税関の人が右の突き当たりと言ったので右側のカウンターに行ったら、実は左だったというオチ。
  • とりあえず実家に帰るべくバスのカウンターへ。「2100円になります」といわれ、ニセンヒャクが理解できない。2100であることは分かるが、そんな大金持っていたっけ?と思い、これがドルではなく円であることに気づき、1ドル=100円ならば2100円は21ドル程度である事に思い至り、それなら持っていそうだぞと財布を覗き込みつつ、さらに2100円は千円札2枚と百円玉1枚で払える事を思い出し、財布の中に青くてドル札より丈夫な紙2枚と、10セント硬貨より大きくて厚い銀色のギザギザがついた硬貨を探す。ここまでおよそ数秒。傍から見ると何となくもたもたしている人程度で済んだはず。
    • 3月に帰国したときも千円札に違和感を覚えたが、今回はまるっきり忘れていた。


12月30日・31日:時差ボケ真っ最中。もちろん年明けの瞬間まで起きていられない。紅白中にうっかり寝て、起きたらさだまさし

  • 日本に帰ったら買いに行こうと思っていた本を求めて本屋へ。520円を約5ドルに換算するまでは良かったものの、代金を払おうとして無意識のうちに五百円玉と百円玉2枚を握り締めている事にはっと気が付く。10セントと100円玉がどちらも銀色で縁にギザギザがついている故の間違い。10円は茶色くて100円よりさらに大きい硬貨のことであると思い出し、財布をごそごそする。まだ、ぎこちない。


1月1日〜3日: http://anond.hatelabo.jp/20130103040523

  • 衝動的に、誰かに読んで欲しくて書き付ける(=叫びだす)場所として増田が恐ろしく有効である事を身にしみて感じた。
  • 上の記事はフィクションです。実在のなんたらとは一切関係ありません…と言えたらどんなに良かった事か。実際はフィクション分5〜10%でつまりは95%ノンフィクション。思い出の中の品物は永遠に失われてもうどこにもない。


1月4日:初出勤、の前に転入届を出しに行くなど。退勤後は、毎年恒例の同期の忘年会/新年会。

  • 住民票の「米国から転入」の記載が、自分がアメリカにいた証のように思える。もちろんパスポートにビザは貼ってあるし、DS-2019だって持っているけれど、日本のシステムに「この人は海外にいました」と書面で言われたのはこれが初めてのような気がした。
  • 大変懐かしくもあり新しくもある職場に到着し、自分の机の所に積まれたPCの箱を開ける。セットアップをしつつ、最後にこんな事をしたのはいつだろうと思ってみる(たぶん学位取る前)。
    • 大量に発生したゴミであるダンボールや発表スチロールをゴミ袋に入るサイズに切りながら、内心「すごい!ダンボール切ったり束ねたりとか!久しぶりすぎてやり方忘れた!大学だ!これが!日本の!大学だ!!!」と妙に盛り上がる(あくまで内心)。
    • 前職場はありとあらゆるものがInstitute内のPC部隊によって管理されているので、セットアップ含めこういう作業は絶対に発生しなかった。逆に言うと、自分では絶対に何もしてはいけない環境。ソフトのインストールすらPC部隊にメールで頼む。
  • 新しい職場の食堂に行くが、「ピリ辛葱チャーシューラーメン」が読めない。ピリ辛という単語があまりにも久しぶりすぎて、うっかり「ピリ/辛葱」といった具合に間違って単語認識したため。あとチャーシューラーメンとかカタカナが続くのも読みにくい。日本語の識字能力が下がっている感じがする。
  • 毎年恒例の忘年会*1は、今年は新年会となってこの日に開催された。昨年欠席したので2年ぶり。でもほとんどの人はTwitterで見かけるので久しぶり感が少ない。
    • 同じ時期に1年間のドイツ滞在を終えて帰国した知人と、日本と海外の文化の違いについて語れたのが一番記憶に残っている。
    • 逆カルチャーショックというか、細かい習慣の違いが分からなくなっていて結構ストレスなのだが、意外とそれを打ち明けられそうな相手がいなかったりする。たとえば、バスに乗るときに運転手に挨拶しないのが気持ち悪かったり、レストランで会計するときに伝票の上に十分なお金を置いても帰ることはできない、等々。
    • 3月に帰ったときはそれほどでもなかったのに今回はかなり違和感を感じるのは何故なのか、色々考えるがはっきりした理由が思い浮かばない。唯一の心当たりは、前回は滞在後満2年を迎える前で、今回は2年と7ヶ月が経過した事。英語の喋りやすさが満2年に近づいてから急に変わった(一段と喋りやすくなった)ので、2年過ぎた辺りでトランジッションというか、知らない間により向こうの文化に馴染んだのかもしれない。


1月5日:いよいよ国内引越に向けて具体的に行動する。

  • 「海外から引っ越してきてまた国内で引越する」という状況を口頭で説明するのは意外と面倒なことを実感し始める。一回実家に滞在して、でもそこからまたさらに…という辺りが特に。しかも、実家自体も自分とは別に引っ越すのでさらにややこしい。
  • そして日本で部屋を借りる際の初期費用の高さに嘆息する。特に関東。礼金とか何のためにあるのか。地味に仲介手数料も他と比べて高いように思う。


1月6日の週:なぜか採用手続きが遅れていたらしく色々なものが遅延する。前ボスとの仕事をぼちぼち再開。並行して引越の準備もする。

  • 部屋を借りるに当たって収入証明を出せといわれる→月収の書かれた採用通知書がこない→今決済に回っている原案の状態のものを送る→これ3月末までの採用だけど4月以降は?とつっこまれる→4月からは職場は同じででもお金の出所は別で、採用は内定してるけど政府の来年度予算が通らないとこれもまた採用通知が(ry
    • 大学の特殊事情をすごく頑張って説明。これで借りられなかったらどうしようかと(結局、週末に無事借りられる事が分かって一安心)。
  • この日記を書いている16日時点でもまだ色々遅れまくっている。具体的に言うと採用通知書がまだ来ない。実害はあまりないけども…。
  • 新しいPCに、以前使っていたInkscapeやらRやらNotepad++やらのソフトウェアを全部そろえて、さらにVirtual Box+CentOSLinux環境を整えたら格段に仕事しやすくなったので、とりあえず前の仕事を再開する。まだ投稿していない論文をどうにかする作業。ちなみに新しいPCは自分の都合で英語版OSの英語版キーボードにしてもらったのだけども、お蔭で全く違和感なく作業が出来ている。有難い限り。
  • 引越の箱詰め。前述の通り自分の荷物は非常に少ない(少なくなってしまった)のだけれども、名古屋から持ち帰ってアメリカに持っていかなかった荷物(ほぼ全て研究室に置いていた専門書等)だけは箱に入っていたせいか手付かずで残されていたので、それをつめ直す作業が主。
    • その過程で雑誌「生化学」を全部、「生物物理」の大半を処分。ほとんど会費払ってるだけだった前者はともかく、割とせっせと学会に出ている後者はちょっと心が痛んだけども、内容はWebでも読めるので巻頭言が面白いものだけとっておく事に。

でもって、1月13日の週こと今週はついに国内引越の予定です。

  • ついこの前転入届を出した役所に、今度は転出届を出しに行く空しさ。ただしどこかにまず転入しないと部屋が借りられない(はずだ)し、一応帰国後14日以内に転入届を出さないといけない事にになっているので、仕方ない。


というわけで(ry

departure

退去、退職、退アメリ

日本に帰る前にもう一回くらいは更新しようと思っていながら、気がつけばあと数時間で空港に赴かなければならないような日時になってしまいました。

  • 書こうと思っていたことを思い出しつつ、今日のところはとりあえずアメリカに行く直前のツイートをTwilogから拾ってみたりなど。

  • 2年半を振り返るに、これは賭けというよりある種の転換点、言い換えれば人生における重要な通過点だったのだと感じる(人生における重要じゃない通過点があるのか、と言われると難しいが)。まだ終わっていない仕事や確定していない事項もあるので、最終的な評価ができるのはもう少し先になるけども、今のところは勝ちも負けもなく「質の変化」としか言えない気分でいる。
    • しかし当時は確かに人生最大に匹敵する行動であったとはいえ、区切りが終わった今となっては、これが人生最大になってしまうとこれから退屈してしまう、それは困るなどと呑気な事を考えている。まさに喉元過ぎれば何とやら。
    • ついでに、人生という単語は、当たり前だが自分のかかわる全ての物事を含んでいることを再確認する。上のツイートを書いたときには、「人生」という単語に対して仕事以外のことを考慮に入れていなかったし、そもそも考慮するつもりもなかったのをよく覚えているので、尚更。


というわけで(ry

restoration

近況:日本への片道切符を手に入れた(文字通り)

いきなりですが、上の見出しの通り、日本に(恒久的に)帰ることになりました。

今年の大晦日は日本で迎えることになりそうです。

  • かなり前から、それこそ2月の学会や3月に一時帰国した際などにお会いした人には伝えていたものの、色々な事がはっきりするまで大っぴらにする必要もないかなあと思っていたらこんな時期に。実に9ヶ月が経過。
    • インターネット上で書くのはほぼ初めて*1
    • 実はこの記事の大半は10月末頃、アパートの退去届を出したり飛行機のチケットを取ったりしていよいよ異動準備の始まりだ、という気分のときに書いたものだったりする。ハリケーンのSandyが近づいている中、停電する前に書き上げたもののアップするのが面倒で放置→予想通り停電する→復旧したけど更新するのが面倒になる、という流れ。さすがにもう更新しないとうっかりそのまま帰国してしまいそうなので、遅ればせながら加筆&更新。


次の職についての話自体は今年1月頃からあったのですが、いろいろと時間に余裕を持たせるために時期を調整してもらったところ、実際の異動は来年1月になってしまいました。

  • 1年も先方をお待たせして大変申し訳ないことに。でもお蔭でこちらでの仕事は異動前にきっちり片付きそうなのでどうか(ry
    • 自分がいなくなると宙ぶらりんになる論文が複数ある状態で異動するとか、ちょっと恐ろしい。1報くらいならまだいいけれども。


異動先はわりと(かなり)慣れ親しんだ環境なので、今から楽しみだったりします。

  • 今の職場の最大の不満である「窓がない(遠い)」「流しがない」「セミナーがない」の3大「ない」をクリアする素晴らしい環境。これを口にするとみんな微妙な顔をするけれども、窓があって流しがあってセミナーがあったラボで学生時代を過ごしているので、この環境の変化には正直耐え切れないものがあった。*2
    • 特にセミナーがないのが応える。学会に頻繁に行く訳でもなく、ラボの他の人と話す機会も全くない状態で、ボスとだけ&自分のプロジェクトについてだけ議論するのは効率こそ最大だが、自分としては不自由極まりない。*3
  • ただし、上の人の研究スタイルについては、元指導教官に「極端から極端」と評された*4ので、あまり気を抜くときっと落差で大変な事に(ry


さて、今年は昨年にも増してまったく日記を更新しなかったのですが、日本に帰ったらもう少し更新頻度を上げられそうな気がします。

  • 普段の言語が英語なのが地味に効いてきている感じが。日記だけでなく、日本語で物を書くという行為そのものから遠ざかってしまったように思う。*5
    • 5月に某申請書類を書こうとしたとき、この手の書類でよく使う語彙を忘れてしまっている事に気づいて困った*6。自分が博士学生だったときに書いた書類を読み返して、忘れていた単語を覚えなおすレベル。
    • 前回の更新は5月の申請のあと、日本語物書き気分が高まっているところに解放感が重なったためにあんな長文になってしまった。もし英語で似たような書類書きをした後だったら、ここまで書く気になったかどうか怪しい。
    • Twitterでも少し書いたが、5月の申請では久しぶりに「言語に不自由せず、かつ誰にも邪魔されずに自分の考えを綴るよろこび」を噛み締めて、書くことを純粋に楽しんだように思う。なので、結果がついて来たのはただただ幸運だったとしか言えない。
  • この5月から12月の間に、サマーインターンの学生が来たり、元指導教官が現職場を訪問したり、自分が赴任したときに始まった2年越しのプロジェクト*7の論文が投稿されたり、新しいポスドクの人がきたりと出来事てんこ盛りだったのだけども、それはまた思い出したときにでも。


というわけで(ry

*1:10月半ばに、Twitterで他の方とのやり取り中にちょっと言及したのが最初

*2:これについては異動直前にエントリーとしてまとめたい、なんとしてでも。

*3:もっと言えば、この「効率」はあくまで短期的な、論文1報2報というレベルであって、長期的な視点からはむしろ有害ですらあるように思える。あくまで個人的、かつ感覚的なものでしかないけども。

*4:自分としてもそれを意識して異動を決めた

*5:それが自分にあまりよくない影響を与えていそうな事にも気づいているけれど、対処せずにここまで来てしまった

*6:〜を示す、〜が期待される、〜だと推察される、等

*7:半分腐りかけていたと言っても、状況を踏まえればきっと誰も否定できないと思われる(嫌がられはするだろうけども、もちろん…)

periodically

近況まじりの感想

最近まったく日記を更新しなくなって久しい訳ですが、今日は久しぶりに何か物を言いたくなるようなものを発見したので、近況を混ぜつつ書いてみます。

  • なぜ近況混じりになるのかは読めば分かるはず。

http://studygift.net/home.php


サイトのタイトルは非常にきれいなんですが、残念な事に中身を読むと


Google+で日本一になった大学4年生(3年生?)の私ですが、成績が下がって奨学金日本学生支援機構など)を打ち切られてしまいました。でも大学出たいからお金欲しいです。お金くれたら情報メルマガ送ります」


というもので、現状は多くの人に開かれたシステムというよりは、個人の知名度と特異な能力に依存した特定の個人のためのサイトになっています。


さて、自分が学生時代、特に学部時代に学費に困っていた話は日記やブコメで小出しにしていますが、ちょうど10年前の今頃、学部3年生だった自分も学費が払えなくて退学、または休学してアルバイトに専念しなければならないかも、という状況になったのでした。

  • 小泉改革のあおりで授業料免除枠が縮小になったため(らしい、他にも結構な人があおりを食っていた)。急な事だったので、厚生課に話をしにいって、逆に事情を聞かされ諭されたりした。

結局、いろいろとやりくりする事で卒業まで2年間なんとか生き延びたのですが、あの時もし休学・退学していたらどうなっていただろうか、なんてことを今でも考えたりする訳です。


で、それとは別に最近、元指導教官に推薦状の執筆をお願いした際、時間の関係で自分が下書き*1を書かねばならず、昔の事をあれこれと思い返す機会があったわけです。
この元指導教官に初めて遭遇したのもちょうど10年前で、卒業研究でお世話になり始めたのが9年前。結局、この先生のところで博士号を取って今の職についているので、9〜10年前の自分の決定で今の自分がいることになります。


そんな訳で、10年前に退学してたら今の自分はないよなあ、休学してたらチャンス逃してたかもなあ、と思うことしきりであったり、奨学金を「このお金を返すと誰かの口座に振り込まれて、その人が大学に行けるんだ」と思いながら返している人間としては、経済的に困窮している人が大学を続けるための支援は惜しまないし、5000円どころか5万円を毎年*2出したって痛くないのです*3


でもまあ、その見返りで、上記のサイトが提示している「いまどきの学生事情」メールなんて、いらないなあ、と。


どうせならそんなものより、1年後、5年後、10年後、その人がどうなったのか、知りたい。X年後のレポートが欲しい。
たとえ、その時学んでいたのとあまり関係ない方向に行ってしまったとしても、あの時大学出れてよかった、と思っているか、思えるような人生を送っているかどうか知りたい。別に思ってなかったら駄目とかではなく、純粋に、興味として。

  • こういう、何年も後になってからやって来るノルマが、結構負担になるのは知っているけれど(そりゃ、お金を貰ったときは恩を感じてても、10年も経ったら…ねえ)、奨学金などの既存制度を使わずにサポーターと称して他の人からダイレクトにお金を集めた以上、相応の負担があってもいいんじゃないかなと。
  • タイムカプセルのように、当時の事を思い返しながら、今の状況を考える機会が定期的に来るのは、個人的には人生にとって良い方向に働くような気がするのです。
    • これは、お金を貰う側だけでなく、あげる側も。

とまあ、研究室配属前〜学部〜修士〜博士〜ポヌドク〜ポスドクと、ここ10年間くらいを推薦状の下書きのために思い返して、あれやこれや書いてとりあえずは教官に送りつつ、学費に思い悩んでいた10年前の自分がこの10年間の出来事リストを見たら驚くだろうなあ、とニヤニヤしたりした直後にこんなウェブサイトを見てしまったので、色々思ってつい書いてしまった次第です。

  • 自分は結局学費は支援してもらわなかったけども、9年前の研究室所属の際には何人かに無理を言って、決定事項の解釈の余地を残してもらったり、枠を譲ってもらったりしたことは今でも覚えていて、その人たちの好意や善意を無駄にしたくない、という気持ちで研究活動に励んでいます。今まで一度も口に出した事も文章にした事もないけども、割と本音です。
    • 特に枠を譲ってもらった人には、今でも申し訳ない気持ちになったり。あの場で枠を譲ってくれたから、10年後の今も同じ分野で仕事をできていますよ、というのが果たしてよい感謝の言葉なのかわからないけども、譲って損したとだけは思われたくないなあ、とはいつも思う。


追記(2012/05/22)

ぼくはぼくが金を恵んであげた相手の顔を見たかったんだなって。顔を覚えて、名前を覚えて、その相手のその先の人生を知りたかったんだなって。その子が将来大成して、どこかぼくの知らないところで「私がここまで来れたのはあのときフォスターペアレントになってくれたMr.Suzukiのおかげです」みたいなことを喋るのを期待してたんだなって。説明が難しいんだけど、ほら、他人にしてあげたことってずっと忘れないじゃない。だからぼくはぼくが募金したフォスターチャイルドのガネシュ君の名前を死ぬまで覚えているはずで、もし彼が学者にも大臣にも実業家にもならなかったら、「なんだよしょっぱいな、せっかく金出してやったのに」くらいのことをチラっと思うはずなんだよね。

http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20120520/1337454405


実は不思議と、こういう感覚はなかったりする。昔はあった気がするけど、もう無い。

  • 自分は相手を覚えていたって、相手は自分のこと覚えちゃいないだろうと最初から思い込んでいる節が。非対称で当然。
  • 確かにしてあげたことは忘れない傾向にあるけれど、その記憶はあくまで自分のためのもの(たまに思い返して、あの人どうなったのかなあと思いを馳せたり、当時の自分自身のことを思い出したりするきっかけにする)で、基本的にはそれ以上のものにはならないと勝手に思っていたりなど。
    • なので、上で自分が「X年後のレポート」を欲しがった理由は「あの人どうなったのかなあ」に対する答みたいなもので、一番近い感覚は小中学校、高校の同級生が今どうしているのかなあ、に対する同窓会みたいなもの。
  • そんなわけで、自分としてはどうなったのかさえ分かれば、どこの誰なのか知る必要もないし、お礼の言葉とかも特に要らない。


というわけで(ry

*1:正しくは、どういうエピソードがあったか等、推薦状を書く上でリマインドしたい出来事を列挙したもの

*2:さすがに毎月は奨学金の返済が厳しいので勘弁してください

*3:ただし、だとしても成績が下がったから、というのは個人的にはいただけないのだけど