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periodically

近況まじりの感想

最近まったく日記を更新しなくなって久しい訳ですが、今日は久しぶりに何か物を言いたくなるようなものを発見したので、近況を混ぜつつ書いてみます。

  • なぜ近況混じりになるのかは読めば分かるはず。

http://studygift.net/home.php


サイトのタイトルは非常にきれいなんですが、残念な事に中身を読むと


Google+で日本一になった大学4年生(3年生?)の私ですが、成績が下がって奨学金日本学生支援機構など)を打ち切られてしまいました。でも大学出たいからお金欲しいです。お金くれたら情報メルマガ送ります」


というもので、現状は多くの人に開かれたシステムというよりは、個人の知名度と特異な能力に依存した特定の個人のためのサイトになっています。


さて、自分が学生時代、特に学部時代に学費に困っていた話は日記やブコメで小出しにしていますが、ちょうど10年前の今頃、学部3年生だった自分も学費が払えなくて退学、または休学してアルバイトに専念しなければならないかも、という状況になったのでした。

  • 小泉改革のあおりで授業料免除枠が縮小になったため(らしい、他にも結構な人があおりを食っていた)。急な事だったので、厚生課に話をしにいって、逆に事情を聞かされ諭されたりした。

結局、いろいろとやりくりする事で卒業まで2年間なんとか生き延びたのですが、あの時もし休学・退学していたらどうなっていただろうか、なんてことを今でも考えたりする訳です。


で、それとは別に最近、元指導教官に推薦状の執筆をお願いした際、時間の関係で自分が下書き*1を書かねばならず、昔の事をあれこれと思い返す機会があったわけです。
この元指導教官に初めて遭遇したのもちょうど10年前で、卒業研究でお世話になり始めたのが9年前。結局、この先生のところで博士号を取って今の職についているので、9〜10年前の自分の決定で今の自分がいることになります。


そんな訳で、10年前に退学してたら今の自分はないよなあ、休学してたらチャンス逃してたかもなあ、と思うことしきりであったり、奨学金を「このお金を返すと誰かの口座に振り込まれて、その人が大学に行けるんだ」と思いながら返している人間としては、経済的に困窮している人が大学を続けるための支援は惜しまないし、5000円どころか5万円を毎年*2出したって痛くないのです*3


でもまあ、その見返りで、上記のサイトが提示している「いまどきの学生事情」メールなんて、いらないなあ、と。


どうせならそんなものより、1年後、5年後、10年後、その人がどうなったのか、知りたい。X年後のレポートが欲しい。
たとえ、その時学んでいたのとあまり関係ない方向に行ってしまったとしても、あの時大学出れてよかった、と思っているか、思えるような人生を送っているかどうか知りたい。別に思ってなかったら駄目とかではなく、純粋に、興味として。

  • こういう、何年も後になってからやって来るノルマが、結構負担になるのは知っているけれど(そりゃ、お金を貰ったときは恩を感じてても、10年も経ったら…ねえ)、奨学金などの既存制度を使わずにサポーターと称して他の人からダイレクトにお金を集めた以上、相応の負担があってもいいんじゃないかなと。
  • タイムカプセルのように、当時の事を思い返しながら、今の状況を考える機会が定期的に来るのは、個人的には人生にとって良い方向に働くような気がするのです。
    • これは、お金を貰う側だけでなく、あげる側も。

とまあ、研究室配属前〜学部〜修士〜博士〜ポヌドク〜ポスドクと、ここ10年間くらいを推薦状の下書きのために思い返して、あれやこれや書いてとりあえずは教官に送りつつ、学費に思い悩んでいた10年前の自分がこの10年間の出来事リストを見たら驚くだろうなあ、とニヤニヤしたりした直後にこんなウェブサイトを見てしまったので、色々思ってつい書いてしまった次第です。

  • 自分は結局学費は支援してもらわなかったけども、9年前の研究室所属の際には何人かに無理を言って、決定事項の解釈の余地を残してもらったり、枠を譲ってもらったりしたことは今でも覚えていて、その人たちの好意や善意を無駄にしたくない、という気持ちで研究活動に励んでいます。今まで一度も口に出した事も文章にした事もないけども、割と本音です。
    • 特に枠を譲ってもらった人には、今でも申し訳ない気持ちになったり。あの場で枠を譲ってくれたから、10年後の今も同じ分野で仕事をできていますよ、というのが果たしてよい感謝の言葉なのかわからないけども、譲って損したとだけは思われたくないなあ、とはいつも思う。


追記(2012/05/22)

ぼくはぼくが金を恵んであげた相手の顔を見たかったんだなって。顔を覚えて、名前を覚えて、その相手のその先の人生を知りたかったんだなって。その子が将来大成して、どこかぼくの知らないところで「私がここまで来れたのはあのときフォスターペアレントになってくれたMr.Suzukiのおかげです」みたいなことを喋るのを期待してたんだなって。説明が難しいんだけど、ほら、他人にしてあげたことってずっと忘れないじゃない。だからぼくはぼくが募金したフォスターチャイルドのガネシュ君の名前を死ぬまで覚えているはずで、もし彼が学者にも大臣にも実業家にもならなかったら、「なんだよしょっぱいな、せっかく金出してやったのに」くらいのことをチラっと思うはずなんだよね。

http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20120520/1337454405


実は不思議と、こういう感覚はなかったりする。昔はあった気がするけど、もう無い。

  • 自分は相手を覚えていたって、相手は自分のこと覚えちゃいないだろうと最初から思い込んでいる節が。非対称で当然。
  • 確かにしてあげたことは忘れない傾向にあるけれど、その記憶はあくまで自分のためのもの(たまに思い返して、あの人どうなったのかなあと思いを馳せたり、当時の自分自身のことを思い出したりするきっかけにする)で、基本的にはそれ以上のものにはならないと勝手に思っていたりなど。
    • なので、上で自分が「X年後のレポート」を欲しがった理由は「あの人どうなったのかなあ」に対する答みたいなもので、一番近い感覚は小中学校、高校の同級生が今どうしているのかなあ、に対する同窓会みたいなもの。
  • そんなわけで、自分としてはどうなったのかさえ分かれば、どこの誰なのか知る必要もないし、お礼の言葉とかも特に要らない。


というわけで(ry

*1:正しくは、どういうエピソードがあったか等、推薦状を書く上でリマインドしたい出来事を列挙したもの

*2:さすがに毎月は奨学金の返済が厳しいので勘弁してください

*3:ただし、だとしても成績が下がったから、というのは個人的にはいただけないのだけど