「というよりむしろ」
実は今から大急ぎでとある文章を完成させなければいけないのですが、どうしても(それ以上に)日記を書かなければいけないような衝動に駆られ、何を書くでもなく(手にまかせて)書いています。
- ついさっきまで見ていたものから、どことなく「活発さ」「綺麗さ」のにおい*1がしたからだろうか?
- 自負心を隠すか、隠さないかの違いか?
- オブラートに包んだ(しかし一枚めくってみるとひどく強い)否定とか肯定とかそういうものを含んでいそうな気がしたからか?
上の反応と関係あるか分かりませんが、今日は電車の中で「結局のところ、自分を正当化しない人間など居ないし、自信というのは正当化の一種とも言える」「正当化パワーが強いか、正当化に使った材料が十分な強度を持っているかで、傍から見た印象は変わる」とかいうことを考えていました。
- 各駅停車だと余計なことを考えていけない。急行なら「ああ、もう(駅名)か」という気持ちが強くて余計なことは考えない。
- 「結局のところ、自分の好むものは正しい、自分は正しいと思って、それ以外の(個人的な)正しさを脅かす価値観は何としても理屈をつけて排除するか、最初から見なかったことにするか、人間の反応というのはその程度かもしれない」
- それを分かっているから何としてでも客観性が欲しくなる。自分の正しさを完膚なきまでに破壊したくなる。(→ただの天邪鬼)
追記:
書かねばならない文書(1)は完成しました。最後はほとんど手に書かせてましたが。
- 「〜が持つ印象との溝を埋めることも重要である」って表現がおかしい気がするけども、何がおかしいのか焦っている頭で考えるとよく分からない。時々ふっと強いおかしさが頭をよぎるけどもどうしてもつかめない。弱った。
- 書かねばならない文書(2)はなぜかうっかり不思議と英語なので手で書くのは無理です。若干ランダムサンプリングで書きます。
というわけで(ry
*1:匂い、もしくは臭い