はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

disconnect

いくつかのうちのまたいくつか

ここ数年くらい「好きこそ物の上手なれ」という言葉をかなり軽蔑していたりします。


…いや、好きじゃなくても上手くやってのけるのが本当のプロってものだと思ってるだけです(謎)

  • それなりの能力と才能があるなら、好き嫌いに影響されず一定の質を保てるだろう、とも。
    • 慣れと怠慢と好き嫌いに勝てれば、たとえ結果は人並みでも立派なプロじゃないか、という気も(ry

いくつかのうちのまたいくつかII

破壊衝動は、分析衝動に繋がる。

  • …全ての仕組みを把握し、全てを根源的な要素の簡潔かつ絶対的な関係によって記述し終わったとき、もはや対象はその記述以外の何物でもないレベルに落ちている、等。
  • そう感じられる事に満足感を覚えるか否か、等。
    • 見ているだけで満足を覚えるならば分析する必要はない、とも考える。
  • そのレベルに落とし込む事が分析でありつまりは破壊である、等。
    • 例のタリウム事件もこれと似た部分があるのだろうか、とも考える。
いくつかのうちのまたいくつかII-2

「見ているだけで楽しいのは幸いだが、決して賢いとは思えない」

  • 「知識を蓄えることで満足するのは幸いだが、同じく決して賢いとは言えない」

いくつかのうちのまたいくつかIII

上と関連して、
対象が好きだから研究する人がいるように、
対象が憎いから研究する人もいるとは思う。
病気関連の研究には、そういう人も結構いるんじゃないかとも思う。
全然いない可能性も、結構あるが。

いくつかのうちのまたいくつかIV

結局は、
「自分の当然、他人の理解不能
という、またいつもの結論に落ち着くのだけども(ry


その感激も、喜びも、悲しみも、狂気も、
他人に分かってもらえる可能性が常にあるとは限らない。
もしかしたら、その感情は傍から見ると
「何を今更」と一笑に付される類のものであるかもしれない。
その感情を一人で楽しむ分にはいいが
他人に分からせるのは、諦めるのも一つの手だろう。

  • これに関して思いついた、よくある開き直りの例:「誰にも分かってもらえなくてもいい、自分が今こういう気持ちであることに間違いはないのだから」

思いつきの追記

責任の重さと、行使できる権力の大きさは、通常、相関関係にある。

  • もし大学院生が「贅沢」かつ「気まま」な職業であるなら、何もできないのが当たり前なのだ、という事実に思い当たって、当然のことだと分かってはいても、ついついがっかりする。
    • それは逆に、責任を持って望めばそれだけの「見返り」があるとも言える。問題は、その手の見返りを「欲しいかどうか」。
    • 何を犠牲にして、何を行い、何を得たいか、を今更ながらはっきりさせる必要がある予感。明らかに今更、明らかに遅すぎる。が、だからといって放って置いていいものでもない。