はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

improvised

音、音色、音楽

「音楽をきいて、色やら数字が(良く)浮かぶという人」へのレスとして。


「物語の欠片みたいなものやシチュエーション」は私も浮かびますよ。数字は(前にも書きましたが)滅多に無いです、っていうか、あんなに強烈だったのはこの前のラフマニノフが初めてです^^;

  • 音楽を鑑賞しないのも同じ…といいますか、音楽は「〜ながら」聞く事がほとんどです。鑑賞なんてとてもとても(謎)
  • 単独で聞いている時は、半夢といいますか、トランス状態になって一切身動きしなくなるので*1、目こそ開いていても傍からは寝ているように見えるみたいです(爆)

昔(中学生や高校生の頃)は、色よりシチュエーションの方が先に浮かんだりして、物語など書くときには必ずと言っていいほどその元になる「曲」があったりしたものですが、最近はもっぱら色に偏っています(昔から色を感じる曲ももちろんありましたが)。


今でもシチュエーションは浮かびますが、やはり色に寄っているというか、色がより具現化したような情景が主です。
同じ黒でも、雨雲の黒と暗幕の黒と夜の海の黒は使い分けられているといいますか、取り替えられない黒のようで、そういう「雨雲」なり「夜の海」なりから光景が組み立てられていくみたいです。
まあ、最近はほとんど物語を書かなくなったので(何故かドキュメント解析の時は締切に追われるまま、何かしら書いてましたが(爆))もっぱら詩にしかなりません。本人以外は理解に苦しむ詩(苦笑)。

遅すぎるかもしれない記述

これ以上間が空くと良くない(気がした)ので、言葉になりにくい思考を文にしてみます。

返事としては遅すぎるかもしれませんが、今更ながら、少しずつ。

  • 全然まとまってませんが、あるだけ言葉に変えてみます。

簡潔に言うなら、「人の直感もまた、何らかの制約下での条件分岐に従った根拠ある『結果』に過ぎないのではないか」「根拠のない直感は、すでに『自分』の直感とは言えないのではないか」となるでしょうか。
言葉のあやのようで、あまりいい理屈ではありませんが、そもそも、どこまでを「『自分』の判断」と呼ぶのか、その定義が人によって違うのではないか、そういう話です。

それは結果として考えれば良い悪いは言えますが、その時に最後に直感を信じた自分はどうしようもないことだからです。


…本当に、どうしようもないことなのでしょうか。
「何故そこで正しい判断が下せなかったのか」を考え、次の機会に向けて蓄えておく事は出来ないのでしょうか?*2
筋道だった判断の最後を、直感という概念で塗りつぶしている…気がしてなりません。

  • と同時に、自分のうちに全く(その判断に用いた)根拠がないなら、それは本当に「自分が下した」判断と呼んでいいのか、よく分かりません。
  • 一見関係なさそうな事が根拠になっている(たまたま目に入った物がきっかけ等)可能性はありますが。


それと、期待値の話なのですが、

収入身長その他をパラメタ表示して評価関数に代入し、友人親族の評価も加えてt検定を行って有意に恋愛対象としてふさわしいかどうか検討して決めるというなら、何もいいませんとも。


とありましたが、これはいわば(恋愛に限らず)「勝算がどれほどか」の計算そのものではないでしょうか。

  • ここで言う「勝算」とは、文字通りの勝ち負けではなく、もっと広い「どれだけ満足できる時間を過ごせるか」という意味だと思ってください。

「どういう人生を生きるべきか?」についても、人生はより細かい事象の集合で構成されている以上、それぞれの事象/その総和について満足度が最大になるような選択肢を選んでいけば良いような気もしますが…?

  • まあ、ここで満足度の定義や測定方法周りやその他諸々で曖昧な点が残る以上、簡単に答えが出せない事に変わりはありませんが。

もっと言えば、誰も不幸になりたいとか、不満足でありたいなどと望んだりはしないわけで、そういう意味で「幸せになる可能性」「満足できる可能性」が最大になるように行動する、それは広い意味での「期待値を最大にする」よう行動するのと同じような気もしたのですが…。


最後に、ドクター進学についての色々ですが…


…正直なところ、本人の意志/やる気や才能/素質などを総合して「勝算」が高ければ勧め、低ければ勧めない、それに尽きるように思います。

  • 誰だってそうだ、と言われればそれまでですが、意志や才能そのものの計り方はもちろんのこと、人によって『意志と素質のどちらにどれだけウェイトをかけるか』が違うので、当然「勝算」の見積は変わってきます。
    • 私はこれまでの自分の経験*3から、後者にウェイトをかけまくるタイプなので、意志が軽視される方向にあります(爆)

…今、本人がどういう希望であろうと、最終的に本人がもっとも満足できるだろう(なんて書くと、ひどく傲慢に聞こえますが)道を示そうと頑張る、それが人に対する誠意だと思っている節があります。

  • 励ましたり促したり…は、本人が望んでいるならやりますが(その選択の結果に自分が責任が持てない以上)むやみやたらと励ますのはまずいと思っていたりもします。


とまあ、色々書きましたが…まとまってませんね…(駄目)

  • 多分、直接会話するとこっぱずかしいことこの上ないのでしょうが、「不特定多数が見る場での『書き』」の効果が、羞恥心をほとんどゼロに近づけているのが怖い(爆)

以下、感性に任せて「てきとうに(ry」

何をするにせよ、「自分程度の人間はいくらでもいる」事を忘れてはいけないのだと、思う。
そこでの競争率をざっと見て、「自分」の山の中から、自身が生き延びられるかを考えないとならないのだと、思う。


こういう事を考える時、最後に行き着くのはいつも「運」だ。
サイコロを振られて、出た目の数だけ進まされる、双六の駒たちに罪は無い。能力の差も無い。
ある者は一番にゴールし、ある者は休み続け、ある者はゴールの手前で何時までも上がれずにさまよっている。
参加する前に盤面を選ぶ事は出来ても、そこでの結果は分からない、
ならせめて、最悪の結果を覚悟する代わりに、その盤面を選んだ事を後悔しないくらいの理由が欲しい。
ゴールの手前で逡巡している間に時間が尽きても、笑って盤と駒を片付けられるくらいの。
また遊ぼうと笑って片付けられるくらいの。


その理由とやらが、
熱っぽければ熱っぽいほど上手く行くと言う奴がいる。
勝ち目があるから、それが全てだろうと言う奴がいる。
見えない何かが囁きかけてくるんですと言う奴がいる。


でも
その中で「最強」なのは
明らかに狙ってるとしか思えない、阿呆臭い理由だとも思う。
例えばトマトが赤かったからとかそういうの。

*1:浮かぶ色とかシチュエーションに集中してる、つもり。集中しないと逃げていってしまうので。

*2:もし蓄えておく事が出来ないとなると、次も全く同じミスをすることになるような?

*3:「意志と結果があまり関係しない」という経験