はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

glacier

今日は、最近の会話から適当に思った事を羅列してみます。

時候の挨拶

プライベートには必要ないが、仕事を進める上では必要なもの、
ということが今日分かった。

自他ともに

自分が「まあ、結局のところ、程度問題でしかないのですけどね」と言ったその数時間後に、全然違うシチュエーションで人が同じ言葉を口にしているのを聞いて何とも言えない気分になる。

  • 確かに、程度問題という言葉はありとあらゆる差異を塗りつぶせるけれど、塗りつぶしてばかりだと何も進まないことも多いと勝手に思った。

何でも反射する話

外界からの入力をそのまま別の相手に反射する行為は、その内容に応じて呼ばれ方が異なる。

  • 三者への言及(特に事実以外の解釈を含む場合)は全て「受け売り」と呼ばれ、自身への批判(他人を主語に変えて反射する場合)は「棚上げ」*1、同様に賞賛の場合は「(的外れな)お世辞」*2。でも実は全部同じもので、ただ反射しているだけという真実。
  • こうして展開してみると、反射という行為そのものがあまり良い評価を得られないのが分かる。しかしそれは何故だろう?

自覚と無自覚

世の中にあるいろいろな迷惑行為について、
迷惑と自覚し自制しようとするなら許せるか、
自覚がない=悪意がないのなら許せるか。


受けた迷惑はどちらに属するのか、
特に頻繁に繰り返される場合にはそこそこ早い時期に判断して、
適切に処理するものだ、と長いこと思っていたのだが
このどちらにも落ちずに
毎回、ただひたすらに迷惑を感じ続けるパワーを持っている人も、
この世にいるのだと今日知った。

  • 迷惑に限らず嫌なもの全般について、それと対峙しながらも嫌だという感情を保持する時間は、人によってかなりばらつきがあるように思う。ある人曰く「超短いか超長いとそれは長所になりうる」らしい。
    • つまりは最初から諦めて淡々とor嬉々として対峙するか、嫌だとひたすら言い続けながら対峙するか。
    • ただし、そもそも嫌なものに長時間対峙できる前提(=嫌なものを投げだすまでの時間ではない)。

言語と非言語

口頭でなら適当に文末をごまかせるけれど、書面ではそれができない。
口頭でなら声のトーンや表情まで使ってごまかせるけれど、書面ではそれができない。
だから今、きちんとした敬語を書くための本が欲しい、無性に。

  • おそらくこれは語彙の問題だけじゃない。少ない語彙、簡単な言葉でもいいから、自分の持つ感情が正しくかつ敬意を伴って伝わる文面を言語問わず書けたら。切実だ。

参考:http://osaka.yomiuri.co.jp/akafude/na60901a.htm

あなた、こんな経験ありませんか?


その1 40年ぶりに小学校のクラス会を開くことになって、赤井筆子さんは世話役に。若くてハンサムだった先生に招待状を書きました。

《拝啓 お元気でいらっしゃいますか。さて突然ですが、来月の9日に秋草小学校昭和41年度卒業生6年3組のクラス会を開くことになり、先生にご出席いただくことになりました。(中略)当日、お会いできるのを皆楽しみにしております。》

その2 クラス会がひとしきり盛り上がったあと、赤井筆子さんが思い出を交えて締めくくりのあいさつをしました。そしてそのあと、先生にこう言いました。《先生も何かお話しになりたいですか?》

その1、招待状には先生の都合や意向を問う配慮が全く無いこと。その2、筆子さんは先生に、話したいなら話させてやる、と言ったも同然。

さてここからは番外編。筆子さんは仲良しだった女の子(?)と涙を浮かべ手を握り合って別れました。でもその隣で別れを告げようと待っていたもう一人の仲良しに気づかず、一瞥(いちべつ)もくれなかったのでした。もちろん筆子さんに悪気はなかったのですが、もう一人の仲良しさんは悲しかったことでしょう。


敬語の話題に添えられたこの番外編。
言葉が先か、人柄が先か。
いずれにせよ恐ろしい。

  • 言葉の使い方に関心を寄せ過ぎるという事はないのかもしれない。


というわけで(ry

*1:主語が自分のままのときは「自虐」

*2:主語を自分のままにすると「自慢」