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spiral

今日はこの手の話題からいってみようと思います。

「広い方の門」と「狭い方の門」

差別か区別か特別かそれとも単に「私は別」か/「機会が平等で、選択と努力の自由があるなら、それは差別じゃなくて競争だ」もしくは「差別と不平を叫ぶより、進んで質を上げませう」

ある組織に入る際に、多くの人が通る一般的な「広い方の門」と、一部の人だけが通る「狭い方の門」があるとするなら、自分は、大学入学から卒業までの間に、3回「狭い方の門」をくぐった。


一度目は大学入試で、前期で某大に落ちた自分は後期で今の大学に滑りどまった。

  • 後期試験は一芸入試か裏口入試か怪しいところがあって、前期合格の人の態度を見るに「基本ダメダメでも何か秀でたところがある」=「後期らしく一芸滑り込み」、全部ダメダメならただの裏口といった扱いだったように思う。
  • 当然、裏口とは思われたくない&後述する転類のために1年次は必死だった。

二度目は転学科(転類)で、2年に上がる際に土木建築社会工学から生命科学へと滑りこんだ。

  • 転類については「めちゃくちゃ成績が良くないとまずできない」というデマ*1が学内の至る所に蔓延していた。また、後日研究室の同期曰く、転類して学科に入ってきた自分は(途中から来たという意味で)目立つ存在だったらしい。ただのアホならまだしも、目立った&頭よさげな噂がある上でアホさらすのはさすがにどうかというわけで、2年次もこれまたかなり必死だった。

三度目は4年に上がるときの研究室所属で、コース(専攻)を越えて今の研究室に滑り込んだ。

  • これは明文化されていないルールの隙間をついていて、相当無茶をしたという自覚があるし、今でも当時のコース長には感謝してもしきれず、自分のために道を譲ってくれたとある学生さんには大変申し訳ないことをしたと思っている。
  • だからこそ「あれだけ無理して狭いところをくぐったのに蓋を開けてみたらアホだった」ではシャレにならないという思いが強かった。なので4年次とか修士とかひいては今も(ry

そのどれも、人によってはしたくてもできない、うらやましいと思われる対象だっただろうし、現に後期も転類もコース越えのどれについても、やりたくてもできなかった人をこの目で見ては来た。
もし彼らから「ずるい」「裏口だ」「反則だ」と言われたら、それは差別だ、自分は制度に乗っかって入ってきただけだなどと叫ぶ前に間違いなくこう言うだろう。


「確かに入ったのは主流のやり方ではなく、時には反則的、時には裏口だったかもしれない。
多数派である真正面から入った組と自分を比べて、自分が全てにおいてしょぼくて、到底真正面からは入れそうにないのなら詐欺呼ばわりもやむなしでしょう。*2


でも、実のところ、真正面から入った人間よりクォリティ低いつもりは全くありませんが何か。


むしろ裏から入ったからこそ、常に真正面の連中には絶対にひけをとらないつもりでやってますが何か」


と。

  • 当たり前だけれど、組織は好き好んで裏口を設置しているわけではない。ただ僅かな「とんがった」人材のために、それ用の特別な入口を用意する、それだけのこと。
  • もちろん、設置した特別な門が結局質の低い人材ばかりを受け入れる裏口と化すなら、他に何かメリットがない限り*3は、やがて廃止されてしまうはずだ。*4
  • その特別な門が一般の門と比べて裏口と呼ばれるか、真に特別として尊重されるかは、その門をくぐってきた人たち自身が証明していくことで、他に判断のしようなぞない。
    • それが、広い方の門ではなく、人の少ない狭い方の門をくぐった人間についてまわる宿命なのだろうし、その門を選択した責任なのだとも思う。


というわけで(ry

*1:実際はかなり状況による。自分の場合は最終的に判明したラインは結構低かった

*2:そして先日の「周りと比べて自分のレベルが足りない時にどうしがみつくか」の話題につながる。

*3:その門を設置すると何か金銭的援助が出るとか、別組織と友好関係を維持できるとか

*4:そういう意味で国立大学の後期試験は「往々にしてただの敗者復活戦にしかならない」からこそ廃止される傾向にあるのだと思う。