はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
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loci

最近、2回ほど考え方の変化につながる出来事がありました。

  • 1.「自分が今楽しんでいるものは実は楽しいと『思っているだけ』で、思うのを止めるとそれほど楽しくないかもしれない」
    • 止める、なんて考えが浮かばないうちはある意味「浮かれ」「酔っている」状態。
    • 止めてみるとそれはそれで案外ありだったりする。感覚にしがみつくことの不必要さのようなもの。
  • 2.「何も考えていなければ、環境が変わっても何も変わらない」
    • 異なる環境に行くのは(感覚的に)恐ろしい。怖い。しかしそれは裏で「何かを考えているから」であって、何も考えていなければ恐ろしいと思うこともおそらくない。
    • どこに行っても変わらないのは「強み」とされるが、本来変わるべき体験をしても変わらないとしたら、それは本当に強みなのだろうか?
    • 結論:異なる環境に無理やり自分を突っ込んでみると何か分かるかもしれない。何も変わらないかもしれない。変わらないならそれは自分にその変化を感じ取るだけの何かがないからかもしれない。
    • もしかしたら感じ取っていても逐一捨てているのかもしれない。しかし、それを本当に捨てていいのか?という問いが浮かぶときにはすでに分別のある状態かもしれない。

1と2は独立なようでいて微妙に関係しているようにも見えます。


また、上の出来事と若干関係するのですが、今日知人と会話している中で「論理さえ組み立てられれば、知識は自ずと入ってくる*1」というような意味の発言がありました。

  • 論理なく知識だけで環境の変化を感じていると表面の違いを感知することに終始する、という思いつきの仮説を立ててみる(検証無し)。
  • そもそも「論理の組み立て方」はどのような形で得られるものなのだろうか?という疑問を覚える(知識としてか、それとも?)。
  • そして、論理について話しているときは大抵、自分の足元がおろそかになっていないか不安になる。*2


というわけで(ry

*1:もしくは、無くても補えるとか、どうとでもなるとか

*2:気を抜くとわりと崩壊しやすいので。崩壊してもせめてそれを自覚できる程度ではありたい…