はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

endowed with

『もしかすると、物事を知るということは、物事を笑えなくなるという事と等しいかもしれない。
楽しい、おもしろい、すごい、と無垢に笑っていられるうちは、何も知らないのと同じなのかもしれない。』


とあるところに紹介されていた
http://additive.exblog.jp/2227205/
を見て、
外科医によって切り出され、家族である私の前に出された
良性悪性入り乱れる腫瘍組織を思い出し、*1
ふと、そんな事を考え、


自分の研究テーマにしても
最近、知れは知るほど、
興味は尽きないが
気分としては当惑し悩まさせられることも多く


また別のところで読んだ
「ほら、きれいでしょ」に関する文章に、
何かを目の前に投げ出して
ほら、きれいでしょ、すごいでしょ、おもしろいでしょ
では、
相手を気分的に満足させはしても
実際には何も示した事にはならないのではないか、*2
差し出す側も、全て知った上での達観か、
そうでなければ、何も知らないかのどちらかではないか、


そんな事も考え、


修論に滅入っているせいだと
こじつけるのは簡単だけども、
おそらくこの辺は前々からくすぶっている
自分の根底にある何かしらではないか
という気も結構する。


追記1:
「面白くも楽しくもないことを、いかにして人に納得させるか。やらせるか」
興味も知識もある人間が、興味はあるが知識のない人間に物を教えることは、本当はたやすく、そして、閉じた世界なのではないか、という疑問。結局は内輪の会。
世の中は「ふーん、それで?」に満ちている。それらとどう折り合いを付けるか。どう動かすか。自分の中の論理は通用しない。
きれいなものを作って見せれば気くらいは引けるが中身はスルーされる。


追記2:
楽しさだけではどうがんばっても満足できない自分がいる。


追記3:
知りたくなかった、と人生のうちで一度も思ったことがない。
知って苦痛を覚えても、知らないで幸福であるより全然いいと感じている。
知ることで笑えなくなっても、それこそがあるべき姿だと主張する。
知ることこそが全てだとでも言いそうでやや怖い。


というわけで(ry

*1:切り出し元であるところの母と、上のブログで登場する「ご母堂」との年は一つしか違わない事も、この連想に拍車をかけた

*2:これはいつかこの文章を書いた人ときちんと話をしてみたいところ。