はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

「座って考える」

まずは一文

最近、今まで留年も浪人もしていないはずなのに、自分が2年くらい遅れているような感覚に襲われるのですが、何故でしょうか。

リンク元から逆に辿る

最近のリンク元の中にこういうURLがありました。
http://www.technorati.jp/search/search.html?query=%E3%83%89%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E9%80%B2%E5%AD%A6


…19日前の自分の記事が眩しく見える*1とか、そういう事はまあいいんですが、
その下にこんな日記を見つけたり。
http://marrone.blog8.fc2.com/blog-entry-19.html


奇妙なほど親近感を覚えるのは、ブログの配色のせいだけじゃないと(ry

  • 「これからの3年間しっかりやっていける自信がない.」「そしてもっと現実的なものとして金銭的な問題.」「迷いながら進めるほど甘くない世界だったということをここにきて改めて実感する.」…来年の今頃、自分が言ってそうな台詞がことごとく並んでいます…。
  • …前者二つは既に現時点で言ってたり思ってたりしますが。*2
  • 「ドクターに進学した理由」「進学することを決めた理由」の中にも、いくつか同意できるものが。

極めつけは、最後の

研究が好きだから,今の分野に興味があるから,と理由は残念ながらない.
ここがすでに間違いだったのかもしれない.


それを言われたら、こっちは痛さのあまり涙が出ます。叫び出します。

間違いか、それとも

…ただ、いつも思うんですが、


好きだから、興味があるから…という理由、


それってそんなに素晴らしいんでしょうか


逆に言えば、
好きでない、興味がないということは、
そんなに問題なのでしょうか



好きだから、興味があるからという台詞を聞くたびに、


「じゃあ、『好きでない』人に比べていい結果が出せると言いたいのだろうか?」
「それとも、動機がピュアだということを主張したがってるのだろうか?」


と思うのは、うがった見方でしょうか


追記:
「好きだから」で取り組んでいる場合、現実が暗礁に乗り上げた時に、
「好きでやっているのだから」という自分への慰め、心の支えが生まれる…という見方もありますが、
その前に「好きだからって理由で取り組んだ自分が甘かった」という後悔に襲われてしまうのは反則でしょうか…

「子供の頃から」

「好きだから」に関連してよく出現するのが、「子供の頃から〜でした」(「小学校の頃の夢は〜でした」)という台詞。
折角なので、ここで自分が「子供の頃から」生命科学(生物学)をどう思っていたか*3など、だらだらと書いてみようかとも思いましたが、長くなるのでまた今度に(ry

*1:割とよくある現象。

*2:ただし、これからの3年間ではなく、これからの人生30年間とかそういうスパンのことの方が多い…(汗)

*3:好きという言葉とは程遠い、いわば苛立ちと確執のようなもの。