はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
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solvent accessible surface

遅ればせながら

(以下の内容は5月20日に草稿を書き、23日に一度白紙に戻して(爆)もう一度書いたものです)


[id:mbr:20050507]にて返信を書きますと言いつつ延ばし延ばしにしていたので、今更ながら。
レス元URL:http://www.es.dis.titech.ac.jp/~hito/diary/?date=20050507#p02


実はここ2週間くらい、この件とそれに付随する現在の自分の状況についていろいろと考えを巡らせていたのですが、

世の中はとかくわけもわからないのにいかにして人はさんまを買えるか?という点が気になるのです。いまさんまを買う私は実は「さんまを買って食べたい」という気持ちだけが買うという行動を突き動かしているのではないでしょうか。(中略)
そういう意味でさんまを買って食べたい、という気持ちをどこまでも擁護したい、という気分があるのです。

やはり、どうしてもここが腑に落ちなかったりなぞしまして。

  • 一つは、「『〜したい』という気持ち」が生じる際には、土台となるいろいろな知識やもっと根源的な衝動があるのでは?という考え。
    • そうやってさらに「気持ち」を分割・分析していくと、「〜したい」が「実はそこまでしたかった訳でもない」「別に他のでもいい気がする」とかに変化する事が多々ある気がする、とか。
    • 「実は楽をしたいだけで、この方法じゃなくても良かった」「実は他の道を考えるのを面倒がっていた」「実はよく知らないのに良いと思い込んでいた」とか。
    • 「昔から〜したいと思っていました」=かつて一度、素晴らしいと感じたがために、対象を素晴らしいものと思い込んでしまって今に至る、ということも(ry
  • もう一つは(上を言い換えた形でしかないかもしれないけども)「『〜したい』という気持ち」って、そこまで重要ではない/信頼のおけるものではないんじゃないかなあ、という漠然とした疑問。
    • 自身の「したい」に従うと、上手く行く人と行かない人がいる…と思う。*1
    • 「実は思い付きだった」「実はその場のノリだった」「実はだまされていた/のせられていた」「実は楽観視してたが無理だった」とか。

「〜したい」が常にポジティブに、心に湛えられた清らかさの内から出現(謎)して、自分を良い方向に導くタイプの人はいいんですが、世の中はきっとそんな人ばかりでは無い、はず。


自分の怠け心なり驕りなり、思い込みなり楽観なりが、悪い形でポジティブに「〜したい」で出て来た時には、それを切って捨てなければ後で痛い目に遭う、ような。

  • たとえば博士進学なら「就活したくないから」「(これは本人の力量によるが)子供の頃から科学者に憧れてたから」とか。
  • もちろん、結果が良ければ全て良しなんですが、博士が余りまくってる今は痛い目に遭うケースの方が多い、気が。

そういう意味で、吟味といいますか覚悟といいますか、「本当にその『〜したい』とやらに従っていいのか?」という自分への問いかけは必要になってくるのでは、と。


完全に思い込みなり楽観なりにとり憑かれていれば別ですが、そうでないなら、決断の前に十分な調査をし知識を得て、「いろいろ考えた/自分を問いただしたが、それでも『〜したい』」と覚悟を決める…のは、そんなにおかしなことでしょうか…?

たとえば極端な例

上の続きで、非常に極端な例を挙げたいと思います。


もし、友達が「もう嫌だ。死にたい。死んで楽になりたい」と本気で言ってきたら?


多分、理由を聞き出して、必死に思いとどまるよう説得するのではないでしょうか。
理由があまりに馬鹿馬鹿しければ叱り付けることもあるかと思います。聞いていて思わず言葉を失ってしまうような理由でも、「気持ちは分かるが、でも」と言わずにはいられない、のではないでしょうか。


今のは本当に極端な例です。死んでしまったら何にも残りませんし、後からやっぱり生きていたいからと生き返る(?!)ことは不可能です。
元々の話題である博士進学には当然メリットもありますし、その道を選んでしまったら二度と戻れないという訳でもありません。ただ、戻りにくいのは事実ですし、デメリットも相当あることは否定できないと思います(注)。


注:ここでのデメリットには、ほぼ万人に共通するもの*2と、個々人によって差がある、確率的なものがあります。確率的なものに対して、

蛇足ながらもう一つ言えば、さんまを100回買うなら期待値が高くなるような行動もまだ僕は理にかなっているように思いますが、人生でただ1回さんまを買うとしたら期待値という概念もそれほど意味がない気がします。

と書かれていますが、これが本当だとすると例えば「自分の住む家を買う」*3といった場合も、期待値は意味を成さないのでしょうか?

  • 「いい家に住みたい」と、下調べやら相談やらいろいろする、それは「期待値が高くなるような行動」なのでは…?

*1:そして、これまでの経験上、自分は後者に属する…と思う(下手の横好きタイプ)。

*2:稼ぎ始める年齢が上がる、大学に授業料を納める、等

*3:人生でただ1回…とは限らないが、通常、頻繁に起こるイベントではない