はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
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synchrony

近況(主に仕事の)

そんな訳で、このままいくと月2回はおろか月に1回も更新しないというゆゆしき事態が発生しそうなので、前回の前振り(仕事の話はまた後日)を引き継ぐ形で今回は仕事周りの近況を中心に記録します。

  • 仕事周り=仕事そのものの状況+仕事場で起きた出来事


1.ようやくN大の重力から解放された

  • いきなり前の職場の話になってしまうのだけども、ちょうど1年前、http://d.hatena.ne.jp/mbr/20100515で書いていた「ほとんど水の入っていない水槽から水を掬いだすような行動」がついに結実し、世に出て行くことがつい先日、決定した。
    • 実のところ、これが形にならなかったら自分にはポスドクを(表面的に取り繕う事はできても)続ける資格はないだろうとずっと思っていたので、今はただほっとしている。*1
    • この1年とちょっと、旧職場のボスに半泣きになって何か*2を叫んだり、よりにもよって新職場のボス&同僚が競争相手になったり部分的に先を越されたり、年末に日本に帰って(新ボスにはバケーションと言われながらも)実際は名古屋にリバイスをやりに行ったり*3、リバイスの方針で旧ボスにこれまでになく強く反論されたり、かと思えば「くよくよしない覚悟でやれ」と言われてみたり、それじゃあくよくよしないためにとレビュアーに全力でぶちきれてみたり*4、それを新職場の別の同僚にたしなめられたりと、書き出すとそれなりにめちゃくちゃな展開だった。
    • 新しい職場に行ってもこの旧職場の仕事を平行して進めていたために、自分の中で両者の違いが鮮明になりすぎた感もある。


2.面白さと重要さ、または後付けの興味

  • 上の「両者の違い」に関連して、最近、何をもって「この研究テーマor研究分野はおもしろい」とするのかについて、ぼんやり考える事が増えた。
  • 明確なきっかけは進化生物学の同僚の「この前、構造生物学でノーベル賞を取った人の講演を聞きに行ったが、はっきり言って面白いと思えなかった」との言葉。
    • その同僚の知人の発言だという「構造生物学の人間はこんなつまらないことをやってるのか!」はさらにインパクト大。ノーベル賞形無し。
    • いやいや、あれは面白い部分もあるのですよと説明しながら、ふと違和感を覚える。言われてみれば自分だって、学部の3年の時は「構造生物学なんて、全ッ然興味なかった」し、未だにどこかでは嫌悪感を抱いている*5のだから、面白くないと言われて「ですよねーあんなのの何が面白いんですかねー」と返しても何の不思議もないのだった。でも構造生物学にかなり近い分野で学位取ってるこの事実。
  • 「自分はいつ、この分野の面白さを理解したのだろうか。未だに感覚的には『何が面白いのかさっぱりわからない』にも関わらず、なぜ面白さを説明しようとし、ある程度は出来てしまうのだろう?」
    • 無条件で「おもしろがれてしまう」*6のとは違う、後から身につけた「面白さの基準」。一体これをどうやって獲得したのか思い返すに、やはりそれは学部4年〜ポヌドク時代の7年間で、指導教官や交流のあった他ラボのスタッフの方々、さらには学会で会った&自分の研究発表にリアクションをくれた人々の様々な価値観を少しずつ『コピー』してきたからなのだろうという結論に達する。もっと明け透けに書いてしまえば、彼らがあれがこんな風に面白いといって喜ぶ姿を眺め耳を傾けつつ自分もなんとなく楽しい気分になっているうちに、彼らと同じ理屈を使って同じリアクションを取るようになってしまった、のだった。
    • ここでひとつ重要なのは、「自分に直接指示を下す人間以外の価値観」に触れる機会が十分あったことのように思う。たとえコピーと言えども、その中での取捨選択は行われていて、誰か一人を完全に受け入れなければならない訳ではない。逆に言えば、コピーのための価値観が一つしかない状況は、非常に苦しい。
    • もうひとつ、自分が面白いと錯覚するのは「その分野または他の分野にとってはっきりと重要である」場合であることにも思い当たる。分野にとって重要=特定の個人にとって面白いでは決してないのだが、自分の場合はその二つがごっちゃになりやすい*7。実際、上で述べた価値観のコピーが完了するまでの間(学部から修士終わりくらいまで)は、自分のテーマがいかに重要であるかがやる気の源泉だった。
    • 結局のところ、少なくとも自分は複数の他人に「これはこんな風におもしろい/重要だ」と年単位で色々な側面から説明されまくっていれば自分が面白いと思わなくても学位を取るくらいには続けられるし、そのうち勝手に面白いと錯覚して独りで勝手に何かやり出すかもしれないしやり出さないかもしれない、というところだろうか。


さて、実は今回がこの日記の600日目の更新になるのですが、切りのいい数字に合わせて割とまともな話が書けたのでこっそり満足しています。

  • 600回記念にかこつけて後者はもっといろいろ具体的に書いてもいいが、事態がやや現在進行形なのでひとまず自粛。1のN大ネタのように、1年後くらいに何か書けるととても良いのだけれども。


というわけで(ry

*1:ただし、何故そう思ったのかその根拠を聞かれると、そこまで確かなものはないのでやや困るのだけども。

*2:当時の日記が手元にあるので内容は覚えているがここには記さない

*3:http://d.hatena.ne.jp/mbr/20101228

*4:注:後悔のないようにやれと言われると、とりあえず後先考えず無茶をするのは自分の人生においてよくあるパターン

*5:これについては学生時代からラボの何人かには明言していた

*6:個人的には、この「無条件の面白さ」は同じ感性を持たない他人に説明できないと、あまり価値のあるものではないと感じる。もちろん、自分ひとりで楽しむ分には何の問題もないのだけども。

*7:これは性格的なものだと思われる。このタイミングでむりやり昔やったstrenghfinder(http://d.hatena.ne.jp/mbr/20090111)を持ち出すなら、回復志向という言葉で説明できる