Segmentation Fault

はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か

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「言語操作能力」/早いものでもう2月ですよ!なぜだ!

そんなわけで自分を取り巻く現実世界、主に職場では最近もいろいろと衝撃的な出来事が起き続けていますが、その辺はまた今度記載することにして、今日は久しぶりに面白いと思える文章を見つけたのでそっちに取り掛かってみます。

タイトルの「論理操作能力」ってなんかライトノベルに出てきそうだ!と思ったらブックマークコメントで指摘されてたり、この言葉の意味が分からんから文意が分からんと言う人がいたり、かと思えばなんとなく想像すればわかるじゃんという人がいたり、こんな事書く奴は(ryという人がいたり、逆に、えっ凄い分かりやすかったよ?という人がいたり、リアクションが多様でまず驚きました。

  • 内容は、「東大行って思ったんだけど、生まれつき頭の回転が速くて反応速度が半端ない奴にはかなわないから、そいつらから仕事を奪われないように気をつけつつ、勝つ方法を見つけてうまく立ち回っていこうぜ!」という感じ(かなりはしょっている上に、筆者が強調したいところが適当な扱いになっている可能性大)。
    • この主張は分かるし、うまく攻撃をかわしたり、たまには何とか勝ってみたり、というのは必要な行動だと思うので、全面的に同意。ちなみに自分は普段からこういう事は結構考えているので、もし仮にこの文章が読みにくかったとしても多分理解できたと思われる(文章自体もそこまで読みにくくはなかった、はず)。

でもこの文章の面白みは内容の外、特に追記にあるような気がします。以下、興味深いいろいろ。

  • 自分の感覚に最もぴったりくる言葉を選び取ろうとする過程(なぜ情報じゃなく論理、なぜ処理じゃなく操作なのか)。
  • 定義したから自分の発明した言葉でも使ったっていいじゃないか、という主張。
  • 明確に定義された言葉の方が、世間に広まっているが何を指しているがいまいちぴんとこない曖昧な言葉より良いだろう、という主張。
  • シンフリとかシケプリ・シケタイ・シケ長とかいった言葉を知っていることは、僕が実際に東大卒である傍証にはなると思います。」という一文。

ぼんやりとした印象をあえて無理やり文章に落とし込むならば、これらの点に見え隠れするのは、言葉至上主義というか、それこそ言葉操作能力というか、言葉を高度に駆使しまくる、自分が言葉について持っている技術をぶんぶん振り回すのは全然問題ありませんよね?という態度な気がします。いや、多分無意識に駆使していて気づいてないに1票。論理操作能力と同じで勝手に発動しているんじゃなかろうか、にさらに1票。

  • 自分の感覚にあった言葉を選ぼうとする姿勢は凄い好ましいというか、素敵というか、いいなあと思うのだけど、その過程が明かされないと他人には分かってもらえないわけで。いきなりアウトプットだけ出されたら、他人は各々が持つ言葉のイメージで解釈するしかなくなってしまう。言葉のイメージは人によっていろいろなので、聞きなれない言葉の組み合わせは読み手に誤ったイメージを持たせてしまうかもしれない。
  • 定義してあればOKなのは原理原則であって、やっぱり分かりやすさを追求しようと思ったら、新しい言葉の発明は避けた方がよいのじゃなかろうか。自分にとってはぴったりでも、他の人にとってはそうじゃないわけだし、定義を理解する時間も必要なわけだし、時には何度も定義に立ちかえらないとならないわけで。知らない用語を一から理解するのって大変だよね。
  • 世間に出回っている=それだけその言葉を含む文脈が多く存在する→大量の文脈から意味を推し量りやすい、イメージが浮かびやすい、ということでもあるので、明確に定義されてなくても文脈がたくさんあるってだけで、十分アドバンテージのはず。「4本足の体長30cm程度の動物であり、全身は毛に覆われている。長い尾としなやかな体を持つ。顔は丸く正面に目を持ち…」ってな長々とした描写の代わりに「猫」なら一瞬で済むのとある程度同じ現象。
  • 自分は東大卒じゃないけど進振りとかシケプリとかは新聞にも取り上げられるほど有名な「東大用語」だから知ってるし、言葉を知っていることは証明にならないよ、言葉はそこまで万能じゃないよ、と。

とまあ適当に手に任せて書いたわけですが、多分この文章も無駄に冗長性が高い(元エントリより表現を借用)んじゃないかと思われます。今回は特に、なるべく難しい言葉を使わないようにして書いたので、一言で済むところが3語くらいになったりしてだらだら感がアップしてそうです。

  • でもそれもまた文章の雰囲気と言う奴じゃなかろうか、うん。


というわけで(ry