はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
まとまった文章が中心。日々の短文はmb(ryにあります。

backbone

ずいぶん長いこと背骨について考えたなと思っていたら、元エントリの方が「背骨関連エントリまとめ&分類」記事*1を上げていて、思わずうひゃー(ry

  • 全部読む&分類しちゃうその几帳面さに凄さと、どういう訳か恐ろしさを感じる。
    • むむう…。この自分が感じている恐ろしさを、もしかして下の学生さんも感じていたりするのだろうか…。
  • そしてこの殴り書きもちゃんと分類されているのだけど*2、ううむ、如何せんポジションが(謎)研究関係という意味では確かにそこで間違いないのだけども(もにょもにょ)
  • それから、もらったトラックバックも考えているうちに色々答えが変わって、いろいろ考えたりやめたり。

しかしあれですよ、また自分のことだから書き始めると長いので、あえて誤解を招きそうなくらい言葉を減らして、またもや殴り書きの如く、

  • 芸術と科学はやっぱり違う気がするのだよな
  • 研究に興味が無かったら、研究室では背骨なぞ育たない/「背骨って複数あるのが普通じゃないの?」/「そんなこと、興味無いね」
  • 複数ある背骨の使い分け/「そんな所に落ちたら誰も受け止められません」「だったら黙るしかありませんが」
  • おまけ

の3部+αでお送りします。

芸術と科学はやっぱり違う気がするのだよな

まずはトラックバックを頂いた必要とされる美術教育 - 隣の誰かと遠くのあなたをについて、

どうやら、芸術表現と論文の違いがあるんじゃね?というのが割とあるみたいんですが、制作においても、作者は必ず説得力を生み出す必要にかられます。そして、その説得力を付随する方法にも様々に研究開発されてきた「型」がある。*7表現を説得的なものにするための諸々の手続きが必要である、という部分では芸術表現と変わりない、と思います。*8


芸術にも型があり、説得力を増すための手続きがある、それはその通りだと思います。芸術だから、個人の感性からくるのだから、やりたい放題やればそれでいいのだなどとは、露ほどにも思いません。
ただ、芸術と科学(よくセットで語られる「科学」と「技術」ですが、今は科学の方だけに焦点を絞ります*3)の決定的な差は、

制作や、言語化とは「私の感性」をいかに共有可能なものにするか?という作業であると言えます。(なんだか研究と近づいてきた気がしませんか?)個々人で異なる「私の感性」を発見し、それを共有可能にしていく営為。*4これこそが、今日の芸術の、根底にあるものではないのでしょうか?*5


ここにあるのだと思っています。


実の所、科学には「正解(=普遍的な真実)」があります。少なくとも自分にはそう見えます。
それは個々の内にある「感性」とは真逆の、絶対的かつ個人とか人間とかいうレベルの外側にある、「事実」です。
それが本当に現在の理論で何とかなるのか、現在の装置で実際に観測できるのか、そもそも人間が滅ぶ前に発見し得るかは別として、あることは間違いない、はずです。*4


ありがちな例ではありますが「重いものほど速く落ちる。羽と鉄球を落とせばその差は一目瞭然だ」という感覚的・日常的な正しさとは別に、「実際には重さは関係なく、空気抵抗の問題である。真空中で二つを落下させれば両方同時に落ちるのだ」という実験上の事実は厳然と存在します。
この二つは区別されるべきだし、科学とは後者を追及していくものだ(…と、まあ、自分が勝手に思っているだけですが…)という点で、出発点が異なるし、そのためどうしても説得の意味も変わってきます。

  • 個人的なものを「他人にも共有できるようにする」のではなくて、個人的に見つけたものを「普遍だと証明する」説得、と言えばいいのでしょうか?

もちろん科学にも感性や、他者との共有が必要な場面はあります。
ただ、その感性や共有はもっと根っこの部分であったり(「そもそもなぜこれを研究するのか?」「この研究を進める意義は何か?」)、途中のやり方のチョイス(型の選び方、実験の仕方、理論のくみ上げ方)の問題であったりと、芸術に比べると出てくる頻度は少ないように思えます。

  • 科学だと、上の人に言われるままに手を動かしていたらいつの間にか凄いデータが出ていましたが自分にはちっとも解釈できません、なんてことが出来てしまうあたりも、芸術とはちょっと違うかなあ、と。うまく説明できているか分かりませんが。
  • おそらくこの辺の「科学の感性/背骨」「分野の感性/背骨」についてはsivadさんの研究とは「パンク伝統芸能」である - 赤の女王とお茶をの方がずっと詳しいので説明は譲ります…というより自分が思わず膝を叩いて速攻でブックマークしました。以下、該当箇所の引用です。

仕事としての研究では、こういう自分の「背骨」に加えて、「分野の背骨」が存在します。

そのフィールドの研究をするに当たって、研究者たちが共有している問題意識のことです。時に「パラダイム」と呼ばれることもあります。

まとめると、研究を教える、ということは

1.自分の背骨を見出させる

2.(少なくとも)分野の背骨を体感させる

3.自分の背骨を分野の背骨の中で位置付けることを学ばせる

4.その具体的形式的方法について教える

ということになります。

逆に大学院ではこれら4つは必ず学ぶべきこと。とくに博士ならばサイエンスの背骨くらいまで及んでしかるべきじゃないかと個人的には思います。


最後のは、主に自分用です。サイエンスの背骨に到達できているだろうか自分。

  • 一応自分なりに目標というか、これだ!というのはあるのだけど、ちょっと実現可能なのか謎。ちなみにそれがもし本当に不可能であると分かった場合、自分が挫折するだけでなく、複数の分野が根底から断絶します(かなり大袈裟表現)。そうなったら本気で泣きます。泣くしかない。あまりにも空しすぎる。

また、以下の山田ズーニー氏のエッセイも、この話題にちょっとかするかもしれないので、一応載せてみます(ほぼ自分用)。

  • まるで狙ったかのような今週水曜日掲載。

Lesson433 自分らしい表現方法をもつ2 ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

自分らしい表現をしていくために、
タテ+ヨコふたつの表現力が要る。

ひとつは「意味」を語る表現力、
もうひとつは「美」を語る表現力。

事実・考察・意見で成り立っているのが小論文だ。

匂い・空気・手触りまで立ち上がらせるのが小説だ。

入試に小論文が導入される以前は、
「豊かな表現力」という名のもとに、
このふたつが曖昧に語られていた。


最後の、このふたつがごっちゃになっている話は、発声練習さんが度々取り上げている『外国語を身につけるための日本語レッスン』にもあった気がします。流し読みの上うろ覚えなのでちょっと自信はないですが。

研究に興味が無かったら、研究室では背骨なぞ育たない

「背骨って複数あるのが普通じゃないの?」/「そんなこと、興味無いね」

えー…、簡潔にという方針で始まったはずの今日の日記は早くも長々モードに突入していますが、二つ目の話題です。
それぞれが考えるそれぞれの「精神的背骨」 - 発声練習にて、自分の書いたエントリは「精神的背骨=問題意識」カテゴリに入っていて、上で挙げたsivadさんのエントリの次に来ています。

  • やばい殴り書きなのに並べられた上に引用されて本当畏れ多い(?)

確かに自分が書いたのは研究に限定しての話なのですが、それには理由があってですね…
一言で言うと


研究には興味無いので、そこで背骨とか価値基準とか持ってませんし要りません。
でも他のことでめっちゃ背骨あるので別にいいです。


ってことがあるからじゃないかなとか。
多分、ブックマークでのコメントや他の人のエントリでも言及あると思いますが。


変な話なのですが、自分がB4とかM1くらいの頃はよく
「自分は学生で習う身だしへなちょこでOKだし、研究に興味失っても転身できるし他にやりたいこともできることも一応はあるし、少々さぼっても別にそこまで損はしないけど、指導教官は研究が仕事で、これでお給料もらってるんだよな
と思っていました。


教官が熱っぽく語りかけてきても自分があまり熱意を持てないとき、もちろんそこには単なる感性の違いやら教官の先見の明マジ最強とか自分の無知さ加減にひどい怠惰っぷりなどなど、実に多数のファクターが影響してきます。
が、何より教官はこれが仕事なのだ、これでずっと人生やってきたのだ、研究に対しての思いが違うのだと思うと、自分は一番納得がいったのですね。

  • 今はすっかり自分もそっち側の人間になろうとしてますが。っていうか博士上がった時点でそっちの人になっちゃうのだ!と思って行動してます本当です(表に見えているかは別として)

まあそんな訳で、研究についてそんなに語る気ない人には「研究の背骨」はいらないしそもそも育たないと思うのですが、どうなんでしょうか。

  • もちろん研究室でもっと一般的な、いわば「人生の背骨(おそらく発声さんが言いたい背骨とはこれだと思うのですがどうでしょうか?自分の生きる指針というか、いかなる時も自分と共にある基準と言いますか)」を見つける人もいるとは思いますが、基本的に研究室は研究をするところ、しかも卒研だと1年だけなので、その間に人生レベルの背骨を見つけられたら、むしろ幸運なのではないでしょうか。
    • ただしうちの研究室では運よく?強制的に全員が「人生の背骨」を問われました。理由は後述(おまけ部分でちょっとだけ)。

複数ある背骨の使い分け

「そんな所に落ちたら誰も受け止められません」「だったら黙るしかありませんが」

それと、今「黙ってるのを何とかしたい→受け止められる経験が不足しているのでは?*5」という話題が出ていますが、自分からだと黙っている人は大体2種類いるように見えます。


1.上のように、研究に興味がないので別に話すことがない。
2.自分の背骨、分野の背骨などを使い分けることができない。


1の人は最初から何も話しませんが、2の人は問えば何かは言います。しかし理由は言わないことが多いです。
それはなぜか。彼らにとって「背骨の使い分け」は難しいからです。


自分の背骨といってもレベルがいろいろあって、
「今日は絶対生協のカレーうどんを食べるぞ!!
万が一売切れだったら飯は抜く!!」

にしても、一応価値基準による判断にはなります。しかも結構堅い決意です。
しかしこれを研究のディスカッションの場で言ったら馬鹿決定でしょう(そもそも全く関係ないし。カレーうどんの研究してるなら別だけど)。


さすがにこんなに外す人はまずいませんが、些細なところでは
「自分の意見を問われているのに、分野の概要(誰それが何をして等)を話し始める」
「まず分野の概要を聞いているのに、自分の意見を真っ先に話し始める」
といった行き違いはちょくちょくあると思います。


さらに、これは例え話ですが、この世でペットが何よりも大切な人がいたとして、その人の「日々の日常の背骨」とか「人生の背骨」がペットを大切にするとかだったりした場合、「ペットが死んだので今日は研究室休みます、自分が発表のゼミも休みます」…などとなった場合、上の人は大変頭が痛いのではないでしょうか。場合によってはこっぴどく学生を叱る場合もあると思われます。

  • これがペットでなく肉親であれば別。しかしその辺の基準はもはや常識のラインで、それは本当は「世間の背骨」とでも名付けられそうな何かとして持っていないとまずい。自分の背骨の一部としてか、もしくは自分の背骨と別に。

理由を言わない人たちは、かつてそういうやり取りで自分の「背骨使い分け」に自信を持っていないが故に、理由=背骨を出さずに話すのではないでしょうか。だって背骨出すとそれ違うって怒られるしみたいな。

  • 上で「背骨は複数ある」と言ったのはそのためです。とにかくいつでも自分の背骨でOKだったらこんなこと起こるはずがなく(ry
  • 元エントリにあった「ジャンプして、受け止める」という比喩を借用するなら、「さあ、飛びな」と言われたはいいけど、本人の運動神経の悪さからか斜め75度の方向へ飛んで行って、最初のうちは受け止める方も真っ青で走っては行くけど、残念ながら誰も受け止められないなんてことをみんなで20回くらいやると、受け止める側も飛ぶ側もいい加減疲弊して、お互い黙ります。これ本当どうしようね。

1の人は「飛ぶってなんですか」「どうやるんですか」「どうでもいいです」
2の人は「あさっての方向へ行くので飛びたくないです」

  • あと本当は「うまく飛べそうなんですがちょっと外れそうで怖いです」という人がいて、実はこれが結構多そうな気がします。成功率7割とか。3割の確率でぎりぎり受け止められないところへ落ちます。これは落ち慣れるしかないのだろうか。

おまけ

自分が所属していた研究室では運よく?強制的に学生10人足らず*6が「人生の背骨」を問われました。
ちょうど1年前、うちの研究室の唯一の教官である准教授の


「僕名古屋大学に移るから」
(=研究室まるごと名古屋に移るから)


の一言で。
758=2*379 - へぴゅーNT/というわけで(ry

  • さああと2カ月の間に、指導教官にくっついて東京から名古屋に移れるか?ネックは金か?時間か?実家か?研究テーマか?東京に残るなら遠隔操作で研究できるか?居候先するならどこだ?さあお前はどうする?状態。
    • いろんな意味で真価問われまくりの学生陣。自分にとって何が一番大切か、これほど各々のキャラが出た出来事はなかった(と思ったし、1年経った今も継続してそう思う)
  • あの時は、いわばhttp://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090223/1235363869にある「絶対に自己の選択から逃げられない限界状況を突きつけ」とか「他人の基準を信じて、あるいは他人そのものを信じていて、そのために自分が破壊されそうになった」に近い状況だったと思われる。正確には、他人が変わったので自分の(人生の)背骨をみんなで発動せざるを得なかったわけだけど。それにより自分の背骨がはっきりしていない人は大弱り。


というわけで(ry

*1:http://d.hatena.ne.jp/next49/20090225/p1

*2:ただの殴り書きなのに!いや、殴ってるだけ(指でキーボードを)の文章なのに!ちゃんと目を通しているとか!引用してあるとか!すげいすげすぎる(謎)

*3:自分が科学側で、技術側にはこれっぽっちも立つ気がない自覚があるので…

*4:これを否定してしまうと科学をやる意味がなくなってしまうと思うのだけど、どうだろう。

*5:http://d.hatena.ne.jp/next49/20090225/p3

*6:含む、新しく配属になるはずだった学部3年生や、今度研究室を受けようとしていた外部の学部3年生