はてなダイアリーでは「へぴゅーNT/というわけで(ry」だった何か。
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最早(not...anymore)

昨日の話(正確に、かつ、淡々と)


あまりに遅く着すぎて、研究室にあったらしいケーキにありつけなかったらしい。
「あと少し早く来ればケーキがあったんですけどねえ」
挨拶の後に付け足された後輩の言葉で、皆の腹に納まったケーキの存在を知ったわけだが、いかんせん時間が無さ過ぎて悔しがるパフォーマンスを忘れてしまった。いや、時間の無さだけではなく、前の日にケーキ類を二切れも口にしてしまった事の方がよっぽど影響している気もする。今思い返すに、これがいわゆる「効用が低い」という状態なんだろう。この表現を思い出すのは久しぶりだ。


そんな訳で大して執着する気もないケーキをさっさと頭の中から消し去り、短い時間の中で最大限やるべきことをやろうとする。と、学生室に来た教官が、プリンタの側に放り出されていたアスクルのカタログと、それにつけられた付箋に気がつく。
「どうして電話のところに付箋がついてるの」
それは一昨日の夕方、初めて研究室を訪れた新四年生の相手も、卒研発表を次の日に控えた現四年生の相手もせず、アスクルのカタログを繰っていた集団の仕業に違いないと思ったが、自分はその集団に属していないので説明を手控える。
「電話、欲しいの?」
アスクルカタログ集団の一人であり、そのとき最も精力的に発言していた(気がする)後輩が衝立の向こうから返事をする。
「いやあ…デザインがいいなーって思って」
「…この電話、買えってこと?」
「いやあ…それは学生の決められることじゃないですからー」
…なんてもどかしい会話なんだ、と、メールをチェックしながら舌打ちする。
電話機を買う話は一年ほど前に一度だけ、持ち上がったことがある。そのとき、この後輩は持ち前のこだわりを発揮して、どの機種がいいか散々カタログなりウェブなりを漁っていた。結局、そこまで切迫した問題でもなかったため購入は先送りとなったが、そのこだわりは後輩の中で忘れ去られる事無く、一年経った今こうしてアスクルの付箋となって現れたに違いない。何と言う執着心。
…とにかく、後輩がデザインの良い電話機を欲しているのは、分かっている。そして教官と後輩のつたない会話は今まさに途切れようとしている。


仕方なく、教官から借りていたものを返すついでを装って(返すものを手に持って、教官に歩み寄りながら)会話にわって入る。
「前に電話買うって話、ありませんでしたっけー?」
衝立の向こうから私を神だと叫ぶ声が聞こえる。おそらく相当感謝されているのだろうが、神は言い過ぎだろう。と同時に、電話機のことなど大して関心の無い、その上全く時間の無い私が、何故会話の手助けをしているのか、甚だ疑問に思えてくる。
「人を神と呼ぶ余裕があったら自分で教官に説明したらどうなんだろうか」
「プレゼンと同じく会話において相手に伝えるべくは背景と目的である」
「デザインデザインって、そんな平たい受話器使いにくいだけだろう」
「デザインよりまず機能ではないのか」
「そもそもこの電話機の本体は教官室に置かれ、学生の我々は普段子機しか目にしないのに何故そこまでデザインにこだわれるんだ」
……そんなことを考えながら、(新電話機購入の本来の目的である)子機の増設が可能なモデルを探している教官の発言になるほどなるほどと相槌を打つ。


ここまでで大体、10分くらいである。

今日の話(簡潔に、かつ、淡々と)

人のいなさ加減がまるで2年前のようだ。